白壁土蔵と鯉にふれ合う。城下町「飛騨古川」の情緒豊かな町並み

飛騨高山から北へ。電車で15分ほどの所に「飛騨古川」と言うまちがある。
よく“高山の奥座敷”と称されるこのまちには、城下町時代の名残である古いまちなみが残っている。

白川郷を後にし、“酷道”と名高い360号経由で飛騨古川へやって来た。

7年ほど前に一度来たことがあったものの、ろくすっぽ写真撮ってなかったのでいつか再訪しなければとずっと思っていた。

これだけ空くとさすがに懐かしさがこみ上げてくるね…。

市役所の前に無料駐車場があったのでそこにクルマを停めた。
目的地はそこからすぐである。

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瀬戸川と白壁土蔵街

飛騨古川の白眉となっているのが、瀬戸川と白壁土蔵のまちなみ。

川には、景気よく放たれた1000匹ほどの鯉が優雅に泳ぎ回り、行く人の目を楽しませてくれる。
実に風情あふれる景観となっている。

鯉のエサも売っており、子供たちがはしゃぎながら餌付けする様子にはどこかほっこりさせられる。

もりもり食べて立派なギャラドスに進化するんやで!

鯉多すぎいぃ!!

 

さて、この辺からは真面目な話をしていこうと思う。

飛騨古川の歴史

飛騨高山藩の初代藩主、金森長近が養子の金森可重(ありしげ)に古川の地を与え、可重が増島城を築城。

この増島城は、飛騨古川駅の南側、現在古川小学校がある場所にあった。

可重は城下町も整備し、瀬戸川を境に北側を武家町、南側を町人町として明確な棲み分けを行った。

明治37年の大火(古川大火)では町並みの大部分を焼失してしまったが、江戸期の建て方を踏襲して再建したので城下町の面影は失われずに残った。

増島城は江戸幕府の一国一城令により、1619年に廃城となった。
城はそのまま「古川旅館」と言う、金森氏の陣屋扱いとなったが、金森氏の移封に伴い1695年に棄却された。

江戸時代初期にはすでに城下町ではなくなっていたのである。

古川のまちはその後どうなったかと言うと、実は増島城の取り壊し後に天領になっている。

元々、商工業の保護育成に積極的だった部分が天領になっても引き継がれ、その後も安定して発展して行った。

繁栄の歴史は、大火後も失われることなく今でも濃厚にその面影を残している。
その中心が、ここ瀬戸川の白壁土蔵街というわけだ。

古いまちなみは数多くあれど、そこに水路と鯉がセットになると魅力がぐっと増して印象に残るものである。

記憶をほじくり返してみると、五個荘金堂津和野あたりを思い出す。
いずれにしてもあまり多くはない。

 

近ごろ女々しい男が多すぎる
男はひたすら黙って酒を飲む

 

完全に同意。

 

いや、男とか若者ではなく、近頃“日本人の日本酒離れ”が深刻だと言われており寂しい限りだと思う。

古いまちなみに行くと、創業から3桁経っているような昔ながらの造り酒屋に結構出会う。

是非とも地酒をお買い求め頂き、そして日本酒を好きになってほしいなと。

(2ページ目へ続く)

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