元祖異文化交流のまち。長崎『丸山遊郭』訪問記

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日本三大遊郭と言われた長崎の丸山遊郭。

※江戸の吉原、京の島原、大坂の新町が三大遊郭だが、丸山を三大に入れる説や丸山と伊勢の古市を加えて五大とする説もある

公許のくるわとして、最盛期の元禄年間には1,400人を超える遊女を抱えた日本を代表する遊郭(花街)は、今どうなっているのだろうか。

長年行きたくて悶々としていた丸山にようやく足を運ぶことができた。

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思案橋

行こか戻ろか思案橋

これから遊郭に遊びに行く男たちが、やっぱり帰ろうか・・いや、せっかくここまで来たし、と思案したことで名付けられた思案橋。
気弱な男はここで己に負け、ふるいにかけられた。

橋はかつてここを流れていた玉帯川(銅座川)に架かっていたが、やがて川は暗渠化され橋は撤去されてしまった。

昔日の男たちはこの橋を渡って遊郭を目指したのである。

第一関門を突破した男たちを次に待ち受けていたのが「思切り橋」である。

この場所に、遊郭の入口「二重門」があり、小さな橋が架かっていた。

(薄くて見えづらいけど)橋の欄干には“思切”と刻まれており、この文字を見て迷いを断ち切り、登楼する決意を固めたのだろう。

この心の機微は、同じ男として理解できるw

なお、この「思切り橋」は当時の場所から少しずれていて、見返り柳と一緒に保存されている。

カステラ本家「福砂屋」

江戸時代の丸山は、現在の丸山町と寄合町を合わせたエリアにあたり、別名を「山」と言った。
で、この入口付近を『山の口』、坂を登りきったあたりを『山頭』と呼んだそうだ。

この山の口には現在カステラ本家 福砂屋の本店があるが、当時は女性たちの御用達となった足袋屋が並んでいた。

いざ思切り橋を渡り、さぁ登楼だ!ってなったところでみんな衝撃を受けるのがこちらの丸山町交番。
年代はよくわからないが、石造りの重厚な建物がひときわ目を引く。

※上記は現在の位置関係での話であり、当時はこの交番のあたりに思切り橋があったそうな。

「長崎さるく」が浸透している長崎市は、まちをぶらぶら歩くことが市民権を得ている街である。
そのためか、ずいぶんと案内板が充実していてこんな感じの解説がいたるところにあった。

ロクに下調べせずに現地に行く人間にとって、これは非常にありがたかった。

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丸山遊郭(花街)の歴史

その案内板にも書いてある通り、丸山遊郭は寛永19(1642)年、市中に散在していた遊女屋を一箇所に集めたのが始まりとされる。

長崎と言えば、鎖国時代にオランダ、清と貿易することが幕府に認められていた土地柄である。

丸山の遊女たちは出島や唐人屋敷に出入りすることを許されていた。阿蘭陀人や唐人を客に取る遊郭は当時ここだけだったと言う。

『丸山の恋は一万三千里』(※長崎とオランダの距離)と云われる所以はここからで、オランダ人と丸山遊女との間には数々の恋物語が残されている。

 

彼女たちは船が出るまでの長い期間、床を共にするだけではなく泊まり込みで身の回りの世話などもした。そのため、客から大金や高価な衣装をプレゼントされることもよくあり、丸山と言えば服装が華やかだと代名詞のように言われていたほどだったのだそうだ。

長崎検番

ただ、江戸時代に隆盛を極めた丸山遊郭も明治に入るとその勢いに翳りが見え始め、1929(昭和4)年には貸座敷4軒の娼妓62人まで衰退してしまう。

そして昭和33年の売春防止法完全施行によってその役目を終えた。

現在はと言えば、花街としては現役で約20名の芸妓が在籍する「長崎検番」が健在である。

 

さて、そんな丸山遊郭をまずは丸山町からぶらぶらと歩いてみることにしよう。
上記マップの水色が丸山町、ピンクが寄合町、そしてピンの位置が長崎検番である。

※当時の丸山と完全に一致しているわけではないっぽいけど、歩いた感じなんとなく合ってそうな雰囲気はあった

最初に目についたのがこちらの建物。
赤線時代の名残に見えなくもない。

玄関周りの意匠が明らかに普通じゃない。
いかにも転業アパートでした、って感じがする。

その路地を南へ進むと、一段高いとこに何やらただならぬ建物が見える。

その建物の真下には『長崎丸山華街(花街)の碑』。

寛永十九年(1642)官命によって開かれる

案内板によれば、この場所が遊郭の東端だったようだ。

背後の石垣は遊郭が塀や石垣で囲まれ隔離されていたことを物語る。

 

なるほど。この石垣は“嘆きの壁”の役割を果たしていたと。
遊女の逃亡防止に役立ってたんでしょうな。

知らんけど。

さっき見えたただならぬ建物は階段を上ったところにあるようだ。
どれ、ちょっと見てこうか。

この建物、発祥が江戸時代と言う長い歴史を持つ『料亭青柳』。

興行師などが滞在する宿屋として建てられ、幕末には大隈重信や井上馨が国策を論じあったともいわれているなかなかの建物。

メニューも色々あって、会席料理、卓袱料理から鰻やすっぽん、ふぐなどの各種コースが安ければ1万ちょっとぐらいから頂けるそう。

 

料亭青柳の下に伸びるのが「丸山本通り」。丸山町の目抜き通りでしょうね。
案内板によれば、電柱の本数や道幅、坂道の傾斜は今とほとんど変わってないそうな。

これが現在の景色。

嘘みたいだろ。この両側に妓楼がばんばん建ち並んでたんだぜ。

(2ページ目へ続く)

コメント

  1. 定マニア より:

    料亭青柳の社長、山口広助さんが地元アイドル?チンドンのリーダーと、長崎県のレアな場所を散策する「ヒロスケの長崎歴史散歩」の最新シリーズが、先日から放送されています。J:COMの旅チャンネルで。番組の冒頭に「鳥居の前」の素敵な建物もチラリと出ます。以前からこの建物はどこにあるのか気になっていたので、分かって良かったです。この番組、チンドンも知らなかったことばかり出てきて、ヒロスケさんて本当にすごいです。ロシア人と交流が深かった「レストランボルガのお栄さん」に、最近興味を持ちました。

    • machii.narufumi より:

      >街歩きの達人山口広助が、地層のように積み重なった長崎の歴史を紐解く散策番組.
      なかなか面白そうですね!
      鳥居の前は説明ないとどこかわかんないですよね・・お役に立ててよかったです^^

  2. おゆ より:

    『濹東綺譚』読了後、「玉の井」の地名ででこちらのブログに辿り着き、楽しく拝読しております。
    以前、寄合町にアパートを借りて暮らしていたのですが、その頃は寄合町本通りに「山頭温泉」という銭湯がありました。「山の頭」ですね。2016年に解体されたそうです。

    • machii.narufumi より:

      いつもありがとうございます。
      はい、銭湯があったことは丸山に行く前から知ってましたが、「山頭」という名でしたか。まさに遊郭の名残りですね。
      濹東綺譚を読まれたのであれば、是非滝田ゆうの『寺島町奇譚』も読んでみてください。

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