戸町・稲佐遊郭跡(長崎県長崎市)

長崎県
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戸町遊郭の次に向かったのが稲佐遊郭。

「稲佐」と言うのは日本三大夜景の稲佐山とすなわち同義で、遊郭は稲佐山の麓にあった。

山頂へ向かう道は「稲佐山登山道路」と名付けられている。
この道を少し上ったところがこの日の目的地だった。

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稲佐遊郭

稲佐遊郭については、『遊郭をみる』に詳らかな描写がある。

稲佐遊郭はロシア人専用につくられた遊郭である。1853(嘉永6年)、ロシア使節のプチャーチンが来航、ロシア艦隊の休息のため、長崎上陸を求めた。ロシア人を長崎の中心街に入れることを避けたかった幕府は、港を隔てた漁村の稲佐への上陸を許可、寺院などを宿泊所に指定した。稲佐遊郭が開設されたのは1860年(万延元年)8月。

ロシア提督のビリレフが軍艦「ポスサジニク号」で来日、稲佐の3人の漁民から住居を借り受け、艦隊の乗組員のために、ロシアマタロス休息所を開設した。同時に丸山・寄合両町の遊女屋21人と談合の上、遊女をマタロス休息所に派遣することで合意したのである。この合意に従って同年9月、14歳から22歳までの遊女27人が派遣された。

言わばロシア人専用の遊郭で、丸山から遊女を呼び寄せて開業した。
歴史だけ見ればかなり異色で興味深い出自の持ち主である。

 

緩い坂道を上ると、巨大な構造物がひときわ強烈な存在感を放ちながら建っていた。
「吉田屋」と言う大店の支店だった建物だ。

まずは、目当ての建物が残っていたことに安堵した。
現役引退後はアパートとして使われていたそうである。

玄関回りはタイル貼り。

一階と二階の間には貝殻が埋め込まれていたり、つぶさに観察するとかなり凝った意匠をしていることがわかる。

稲佐遊郭は、『全国遊廓案内』によれば14軒、約115人と言う規模だったそうだ。
ただ、決められた区画内で“一廓をなしていた”わけではなかったようだ。

 

もう一軒、こちらもよく知られた建物が残るのは吉田屋支店から少し上り、脇道に入ったところだった。

妓楼と言うよりは赤線時代のような趣きをしている。

以前は畳屋の看板が取り付けられていたようであるが、外されていた。
人は住んでいそうだが、空き家のように見えなくもない…。

まだしばらくは残ってくれていそうな感じはするけど、もう当分長崎行く予定ないから、次に行くときにはなくなってそうな気がするな…。

 

あと、付近の路地裏をちょろちょろっと歩いて稲佐遊郭の散策を終えた。

これは後から知ったことだが、どうも登山道路の登り口から見て道路の反対側(東側)が遊郭の目抜き通りだったそうだ。一軒古い旅館が残っているものの、名残的には皆無だと言うことも付け加えておく。

ロシアと繋がりの深い稲佐遊郭。
すぐそばにある悟真寺にはロシア人墓地があったりと、歴史を掘れば色々面白いことが見えてきそうな場所だった。

[訪問日:2019年10月12日]


コメント

  1. 匿名 より:

    理髪店の隣の悩ましい建物は、元角海老楼です。白いシャッターの奥には見事な破風屋根が残っていますよ。3階建てだったのを、大きな台風のあと二階建てにリフォームしたそうです。この建物、今は三味線教室で、格子窓から三味線の音が聞こえます。

    • machii.narufumi より:

      シャッターの奥に破風屋根はさすがに想像できませんでした^^;
      三味線教室ですか。これほど三味線の音色が似合う建物もないでしょうねぇ。
      いつまでも残って欲しいですね。

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