人類には、「戦争」という決して忘れてはいけない悲しい歴史がある。
世界で唯一の被爆国である我々日本人にとってはなおさらのことであろう。
しかし、被爆したHIROSHIMAに加害者としての歴史があることを知る人はあまり多くないという。
もしかしたら過去、その場所に行ったことがあるのによくわかっていない人もいるかもしれない。
そういう場所が広島にある。
竹原沖に浮かぶ「大久野島」。
巷では“ラビットアイランド”などともてはやされ、もはやリゾートアイランドとして認知されている感すら漂う小さな無人島である。
うさぎ島へ
島へ渡るため、3年ぶりに竹原にやって来た。
前回歩いた町並み保存地区はパスし、忠海(ただのうみ)港へ。
駐車場は近いところは軒並み満車。
徒歩5分ぐらいの第2駐車場にギリギリ停められるぐらいの混雑ぶりに辟易しながら、大久野島への切符を買った。
大久野島へはカーフェリーで15分。
周囲4.3kmしかない、歩いて回れるほどの小さな島なので基本的にはクルマを持っていく必要はない。
あまりにも瀬戸内らしい気候。海はどこまでも穏やかだった。
キラキラ輝く海面に、いやが上にも気分が高まってくる。
- トラベラーズ・ハイ
今なら水軍に出会っても素手で倒せそうな気がする。
15分の島旅を経て、大久野島へと上陸した。
多島美が美しい。
そこは完全にリゾートアイランドだった。
ビジターセンター前で出迎えてくれた第一島民、ならぬ1羽目のウサギからは1ミリもやる気が感じられなかった。
もはや休日のお父さん状態である。
そこら中にうじゃうじゃいるウサギたち。周りを見渡せばみんなもふもふしたり餌付けしたりしている。
なんて尊い光景なんだ。
噂に違わぬラビットアイランドである。
だが違う。モフるためにはるばる瀬戸内まで来たわけではない。
強い気持ちでもふもふたちの誘惑に打ち勝ち、任務を遂行せねばならないのだ。
毒ガス島
ここがただならぬ島であることは冒頭、提起した通りである。
明治時代、外国艦隊の侵攻を防ぐため、陸軍によって砲台が建設され「芸予要塞」と呼ばれた。
同じ経緯で紀淡海峡の防衛に建設されたのがラピュタ島、こと友ヶ島の砲台である。
今も残る芸予要塞時代の桟橋に歴史の一端を見ることができる。
友ヶ島同様、結局芸予要塞は一度も実戦で使われることなく大正13年に廃止となった。
1929(昭和4)年、旧陸軍の毒ガス製造所がこの島に建設された。
機密保持のためその存在は地図から消され、終戦まで水面下で毒ガスの製造が行われたのである。
島には当時の施設が廃墟と化した状態で残っており、歴史の生々しさを物語っている。
その傍らでむしゃむしゃと葉っぱを頬張るもふもふ達。
なんなんだ、このあまりにも壮絶なギャップは…。
この施設は「発電場跡」。
重油を燃料とする計8台の発電機が置かれ、工場を稼働するための電力を賄っていた。
終戦も近い頃には、女子動員学徒がここで風船爆弾を作っていたと言う。
のっけからすごいものを見せられて衝撃を受けたが、他の施設を見るために島を一周する。
外周道路は手つかずの自然が残るさながらサバイバルコースの様相を呈していた。
山頂展望台へ上がる遊歩道は、土砂崩れの影響ですべて通行止。
山頂近くにある「中部砲台跡」を見ることも叶わず。
うーん…残念。
2018年時点で生息数900羽オーバーと推定されるウサギたち。
大げさではなく、島内どこを歩いても出くわすぐらい数が多かった。
この可愛さは凶器だと思う。
ある意味毒ガスより怖い最終破壊兵器である。
北部砲台跡
島の北側に、芸予要塞時代の砲台跡が残る。
「北部砲台跡」は日露戦争前の1902年に設置され、司令塔跡をはじめ12㎝速射加農砲砲台、24㎝加農砲砲台、地下兵舎、砲側庫などの遺跡が残っている。
対岸の忠海が見える。
120年前に守ろうとしたその海の美しさに、思わずため息が漏れた。
今も残るこれは砲台・・ではない。
毒ガスを製造していた時代に設置された、大きなタンクを置くための台である。
地下には兵舎や砲側庫などがあった。
友ヶ島や、昔行った猿島によく似ている。
猿島なんてもう6年以上前なのか。ただただ懐かしい。
地下兵舎跡。
立入禁止になっていた。
物騒な戦跡が続いたので、このへんでちょっと癒やしを…笑
島の最北端まで来た。
と言ってもこれで1周の3分の1ぐらい。
1/3の順調な完了。
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