闇市から青線へ 岐阜市『国際園』

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名古屋・城東園の町並みをしかと見届け、いよいよ舞台は最終章の元中村遊郭、「名楽園」へ・・・
行かないのが自他共に認めるあまのじゃく人間の真骨頂なわけである。
実はこのとき、諸々の事情があり名楽園には寄らなかったのだ。

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そんなわけで、次に向かったのは隣県の県庁所在地、岐阜駅である。
岐阜と言えば、東海地方に於いて燦然と輝く『金津園』の存在が外せないが、今回の目的地はそこではない。戦後の闇市を経て青線へ移行した『国際園』を見るためにやって来たのだ。

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国際街

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歴史を紐解けば、岐阜駅の北方に位置する金神社の境内(金公園)に発生した闇市、「国際街」に端を発する。

当初は普通のマーケットであったのが、いつしか飲食店が私娼を置くようになりいわゆる青線化したため、立ち退き問題が「岐阜市都市計画の癌」とまで言われるようになる。
そして、行政、業者、市民を巻き込んだ大騒動の果てに、二転三転した移転計画は終戦から11年後の昭和31年(1956年)11月にようやく実現することになる。場所は現在の岐阜市花園町である。

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ところで、昭和31年と言えば、5月に売防法が成立した年である。
そのため、業者は料理屋や旅館に転業しやすい建築様式を採用したほか、移転したのは64軒のうち35軒、すなわち半数程度にとどまっている。先が見えない商売に希望を見出だせず、残りの者たちは転廃業し土地を離れた者もいたという。

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元々、業者たちは(すべてではないだろうが)飲食店の届け出で営業していたため、おそらく移転後も同じ業態だったと思われる。
そう思って歩くと、確かに小料理屋風の店舗がずいぶんと目についた。

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ただ、開業や移転直後に売防法が成立するというショッキングな事態を免れたのだから、そういう意味じゃ国際園の業者たちはまだ恵まれていたとも言える。

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戦後、10年もの歳月が経過した昭和31年に成立した遊里にしては、ずいぶんと寂れ方に磨きがかかっている。まぁ、60年が経とうとしているわけだからおよそ無理もない話ではあるが。

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電柱にはしっかり「国際」の文字が刻まれていた。ここが『国際園』である揺るぎない証拠である。

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そして最もパンチの効いた遺構がこちら。青線、かつ転業を意識していたために全体的に控え目な建物が多い中、ひときわ異彩を放っていた。

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玄関まわりに着目すると、和洋折衷とでも言うべき雅な趣きを湛えている。
現在も住宅として使用され、数少ない生存者だと言える。

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次いでインパクトの大きかったのがこちらの『ミカド』。
巷では、国際園と言えばこの建物、と言えるぐらいこの絵はよく見かける。まぁ、あくまで狭い業界内での話ですがw

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とうに退役した老兵よろしく建物自体ずいぶんくたびれていた。むろん、商いもすでに終えたようで土に還る日を静かに待ちわびているような姿がただそこにはあった。

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「ミカド」「祇園」「松葉」
戦後臭漂うバラック長屋も現代では文化遺産レベルである。
この猥雑さは、洗練された時代を生きる我々にとっては永遠の憧れではないだろうか。

(2ページ目へ続く)

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