風情がありあまる!暖簾が揺れるハイソな街「勝山町並み保存地区」が最高だった

この記事は約4分で読めます。

出雲街道を新庄、美甘と辿って湯原へ向かったが、宿場の順で言えば次が「勝山」となる。
ここら一帯、今では真庭市となっているが平成の大合併以前は勝山町だった。

桜並木に彩られた国境の宿場町、出雲街道「新庄宿」
新見を発ち、中国山地を北上した。 たどり着いたのはお隣、新庄村。「日本で最も美しい村」を標榜する、人口800人足らずの小さな村である。 この新庄村には、かつて山陽と山陰をつないだ出雲街道の宿場町「新庄...
出雲街道 美甘宿の町並み(岡山県真庭市)
新庄からこの日泊まる予定の湯原温泉へ向けてクルマを走らせていると、お隣「美甘宿」の案内板を見かけたのでちょっと寄って行くことにした。 地図で見ると、国道をそのまま真っすぐ行くと旧出雲街道。旧街道をよけ...

昨夜湯原温泉でも呑んだ、この地方を代表する地酒「御前酒」の蔵元があるのがここ勝山。
現地に着くや否や、真っ先に目に飛び込んでくるのがこの酒蔵と煙突だ。

もともと勝山は前日に歩く予定だったが、来てはみたものの酷い土砂降りで何をどう頑張ってもまち歩きなどできそうになかった。
かなり楽しみにしていたこともあり、翌日の新庄宿と入れ替えたというわけである。

結果的にこれでよかった。

スポンサーリンク

勝山の歴史とか

高瀬舟発着場跡

出雲街道の宿場町だった勝山は、同時に美作勝山藩2万3千石の城下町でもあった。
また、裏手を流れる旭川には室町時代から始まったとされる高瀬舟の発着所があり、舟運も盛んだった。

勝山が最も上流側の港だったため、陸路と水路が切り替わる交通や物流の要衝として栄えたのである。

岡山には県が独自で定めた町並み保存地区が8ヶ所存在するが、昭和60年、映えある第一号に選ばれたのがこの勝山だった。

町並みは旭川の左岸に約700mに渡り展開されている。
北端の駐車場にクルマを停め、ぶらぶらと歩いた。

橋のたもと、旭川に面した旧岡野屋旅館。
廃業しているが、明治後期の建物は登録有形文化財になっている。
昨年公開された映画『燃えよ剣』のロケで使われたそうだ。

道標が建っていた。

東:→ 大仙倉吉道
南:左 雲伯往来
西:右 京大坂道

大山(だいせん)は大仙と表記することがあるらしい。

御前酒を醸す「辻本店」の土蔵。

お隣、江戸後期に建てられた主屋は登録有形文化財。
ちなみに辻本店は1804(文化元)年創業の造り酒屋。

女性杜氏が活躍する酒蔵として業界ではちょっと名の知れた存在となっている。

主屋は事務所機能しかなく、直売所は向かい側の西蔵になる。
帰りしな、こちらで二本お買い上げ。

なお、察しの良い方であればピンとくると思われるが、「御前酒」の名は藩の献上酒だった歴史に由来している。
非常に由緒ある酒蔵なのである。

旧出雲街道。
石畳が美しい、白壁土蔵な町並みが伸びている。

さすがに保存地区に指定されてから40年近く経つだけあり、修景のされ方もどことなく洗練されている感じがする。

事実、古民家や蔵を転用したカフェやギャラリーが古き良き伝統に程よくミックスされた街並みは、まちづくりのロールモデル的な評価を受けており、視察に訪れる人もいるほどだと言う。

懐古主義者の中には今風の要素を取り入れた修景やリノベーションに拒否反応を示す人もいるようだが、時代ごとによいものや求められるものの形は変わっていくので、町並みが変化していくのは必然だろうと思う。

加えて、地方では町並みを護り維持していくためにはやはり観光色をプラスするのが最善策であり、最も近道だと言える。

他所から来た何も知らない人間がまちづくりの方針にごちゃごちゃと異を唱えるのはどう考えても筋違いであろう。

町並みを愛でる側が、柔軟な心と広い視野で目の前の風景を受け入れ、長い間保存と向き合ってきた住民の苦労に敬意を払う姿勢が最も肝要であると、筆者は常々そう思っている。

顆山亭(休憩所)

脱線したので戻ろう。

さて、お気づきだろうか。
各家の軒先に暖簾がかかっているのを。

なるほど、まちおこしの一環で・・と合点するのはちょっと待ってほしい。

実は話が全然違うのである。

保存地区で暮らしているとある染織作家さんが、「古いまちだから暖簾でもかけようか・・」と何気なく始めたことが「いいわね、じゃあうちも」みたいなノリで次々伝播していって、結果として今の状態にまでなったのだと言う。

別に暖簾や草木染が特産品であるわけでもなく、観光のためでもなく。
っていうストーリーを知ったとき、「あぁこれは面白いな」と。

これぞ共同体のあるべき姿だよなぁとそんなことを思った。

脇道の風情に吸い込まれるように曲がってみた。
どう見ても階段にしか見えないが「三浦坂」と言うそうだ。
昔は坂だったのだろうか。

名前は、藩主であった三浦氏の下屋敷が付近にあったことに由来している。

かの文豪谷崎潤一郎は一時期疎開で勝山に身を寄せていたそうだ。
終戦直前、昭和20年の7月のことだと言う。

(2ページ目へ続く)

コメント

タイトルとURLをコピーしました