富山の古い町並みを語る上で絶対に外せないのが彫刻の町「井波(いなみ)」である。
室町時代、京都本願寺の5代法王、綽如(しゃくにょ)上人が開いた瑞泉寺の門前町として栄えたまちで、参道でもある「八日町通り」が町並みの中心となる。
八日町通りの入口にある観光駐車場から散策をスタートした。
と、その前にこんな素敵な割烹が目についたら、土砂降りだろうがなんだろうがスルーするわけにはいかない。
・・あっ。(実は富山初Getでした)
同じ北陸の石川とは全然違うのね。テイスト的には静岡に近いかな。
八日町通り
おほん。では満を持して八日町通りへ。
石畳のゆるい坂道に格子戸や袖壁を持つ古い町家が立ち並び、風情を感じさせる通りである。
なんだけど、雨が強すぎて写真撮るのも一苦労。。
水平が派手に傾いたりぶれまくったり、いつもの3倍ぐらい時間がかかる。。
帰りたい。。orz
冒頭に書いたとおり、井波は彫刻のまち。
職人は250人を数え、彫刻工房も200軒という国内最高峰の高い技術がここに結集している。
ではいかにしてこれほどまでになったのかと言うと、答えは瑞泉寺である。
1581年、織田信長の軍勢「佐々成政」によって焼き討ちに遭い、瑞泉寺は焼失してしまう。
江戸時代に入り、加賀藩の前田家によって復興したものの、その後も何度かの焼失と再建を繰り返すことに。
井波彫刻は、この再建によって培われた寺社彫刻を源流としている。
特に18世紀、江戸中期の再建では京都本願寺より彫刻師が派遣され、井波の大工が師事したことでより技術が深化し、「彫刻の町」の名を不動の地位に押し上げた。
井波彫刻は、欄間や獅子頭など、ただの木工品というよりかはどちらかと言えば芸術性に富んだ美術品に近いという特徴がある。
そうそう。井波彫刻の欄間と聞けば真っ先にここを思い出す。女将さん元気かなぁ。
八日町通りの建物を眺めると、看板や表札に惜しげもなく井波彫刻が施されている。
こういうのを見るだけでも楽しい。
突如現れる近代建築は2019年に閉館した「井波美術館」。
元々は旧中越銀行井波支店として1924(大正13)年に竣工した建物で、昭和62(1987)年から美術館だった。
で、最近東京の不動産会社に売却されて、飲食店にすることを検討しているそうな。
※2024年3月に和食店「施膳ろくざんさ From INAMI」としてオープンしたようです
井波のまちは、2018年に日本遺産に認定されている。
肩書きは「宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波」。
井波彫刻を核に、町全体を美術館に見立てている、というコンセプトらしい。
しかし日本遺産も乱発されまくってるせいか個人的にはあまりありがたみを感じないんだよなぁ。。
ひとつの認定で複数市町村、複数資産が当たり前だし…。
江戸末期建築、登録有形文化財の「斎賀家住宅」。
かつては「糀屋」の屋号を名乗る商家だったようで、無料で一般公開されている。
こちらは「井波木彫工芸館」。
製造販売もやってる工房って感じのようだ。
日本遺産の他にもうひとつ、井波は「日本の音風景100選」なるものにも選定されている。
音?
と思われるかもしれないが、木彫りの際の槌音があちこちで聞こえることから選定に至ったようだ。
槌音なんて聞いてないけどなぁ?
↑雨音ですべてかき消された説w
瑞泉寺
ラスボスよろしく参道のどんつきにそびえ立つ山門。
“井波彫刻の祖”、瑞泉寺の登場である。
これか…。これが国内最高難度の匠の技・・
凄すぎる。。
さらに。
瑞泉寺の真ん前に立つ旅館が外観だけで最高すぎた。
絶対にいつか泊まりに行きたい…。
じゃあ戻りましょうかね。
バス停も木彫り。
井波美術館脇の路地を入ったところの風情が大変よきでした。
雨が酷すぎてほとんどそれしか記憶に残ってない井波の八日町通り。
最後に「黒髪庵」を見に行った。
と言っても中には入らなかったけど。
浄蓮寺の境内にある黒髪庵は、俳人数百人が寄進して建てられた小さな庵。
すぐそばにある扇塚は、松尾芭蕉の門弟だった瑞泉寺の11代目が芭蕉の墓から小石3個を持ち帰って建立した塚。
つまりは芭蕉ゆかりの地というわけで、日本遺産の構成文化財のひとつでもある。
瑞泉寺から近いので、是非ともお立ち寄りあれ。
[訪問日:2021年8月13日]
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