吉原栄枯盛衰記 ~日本最大の廓があった街~

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江戸時代に成立し、公許の遊郭としては名実ともに日本最大の規模を誇った吉原遊郭。
今、「吉原」という言葉を聞いて浮かぶイメージはたぶん人それぞれ違えども、そこで起こった歴史が鮮明な輪郭を持つことについては異を唱える者はいないであろう。

そんなわけで、今回は吉原遊郭について拙筆ながら綴っていきたいと思う。

まず、どこよ?という方のために場所の話からすると、浅草・浅草寺からだいたい北へ1kmほど。日比谷線の三ノ輪駅、入谷駅、そして各路線浅草駅。どこから行っても中途半端に遠いややへんぴな場所にある。
昭和41年(1966年)の町名表示で「吉原」という地名は消滅し、現在では『台東区千束4丁目』となっている。

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見返り柳

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地図上、ピンで示した「吉原大門」の交差点、同名のバス停を筆頭に今なお「吉原」の名をとどめる場所も僅かながら残っている。
そして、その交差点の角には遊郭時代の名残である見返り柳が植わっている。

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遊客が、帰り際に名残惜しさに振り返ることからその名がつけられた見返り柳。
すでに何度か植え替えられたそうで、今が何代目なのかはよくわからない。
ちなみにこれ、島原遊郭の柳を模したと言われている。

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今いる通りが「土手通り」といい、かつて山谷堀が流れ、日本堤という土手があった場所。
ちなみに、映画『吉原炎上』のラストシーンで名取裕子と小林稔侍が燃えさかる吉原を呆然と見つめた土手がここ。

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衣紋坂

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吉原大門の交差点から“廓内”に入ると、道がS字カーブを描く。衣紋坂と呼ばれた道で、大名行列が通るときに廓の中が見えないようにわざと曲げられて作られたと言われる。
今ではほぼ平坦な道だが、昔は土手から下る坂道だったので名前だけその名残が残っている。現在は「五十間通り」と言う。

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大門は衣紋坂の先にあった。
こちらは明治時代の大門。『遊郭をみる』より引用。
明治44年(1911年)の吉原大火(俗に言う「吉原炎上」)で完膚なきまでに焼け落ちてしまい、その後は再建と焼失の歴史がくり返され現在ではハリボテみたいなちゃっちい柱が建っているだけに過ぎない。
あんまりしょぼいのでそう言えば写真を撮り忘れてしまった。

※後日撮影したので画像貼っておきます。(右側に立ってるひょろい柱が大門もどきです)

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仲之町通り

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大門通りは、正式名称を「仲之町通り」と言う。往時は通り沿いに引手茶屋(貸座敷に上がる前にお客をもてなす茶屋)がずらっと並んでいたが、今では昔日の面影はまるでなくなっている。

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仲ノ町通りをずんずん突き進み、台東病院を越えた左側に吉原弁財天がある。かつて遊郭の人々の信仰を集めた弁天さんで、傍らには弁天池と呼ばれる池があった。
関東大震災の際、490人の遊女が池に飛び込んで溺死したという哀しい歴史の舞台でもある。

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中には、関東大震災後、遊女たちの供養のために大正15年に建てられた観音像がある。
ここで起きたことを思うと、掛け値なしに胸が痛む。

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ここにあった池は、裏手にあるNTT吉原ビル建設の際に埋められてしまい、今では僅かな名残のみが見られる。
池の写真も撮ってなかった・・すんません(´・ω・`)

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弁財天の石垣には奉納者の氏名が刻まれているが、軒並み「○○楼」と書かれているとおり、ほとんどが妓楼の楼主である。まぁそりゃそうですよね。

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吉原弁財天の斜向かいにでーんと建っているのが台東病院。
1911年(明治44年)に、娼妓たちの検診のために開設された「吉原病院」が前身となっている。
当時は花柳病のみならず、伝染病などで若くして命を落とす遊女がたくさんいた。そのことを思うと、やはりここでも胸が痛む。

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吉原神社

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病院のすぐそばにあるのがこちらの吉原神社
付近に点在していた5つの稲荷神社と吉原弁財天を合祀した神社で、浅草七福神のひとつに数えられている。

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境内には明治44年の大火で焼失したご神木、逢初桜の二代目が植えられている。2013年1月、なんと100年ぶりに復活したそうで。

(2ページ目へ続く)

コメント

  1. maru より:

    「遊郭の世界」という昭和51年発行の本がございまして
    著者の中村芝鶴さんは、この大文字楼の関係者です。
    記述によると八文字という独特な歩き方も
    いろいろ型があるようで、店によっても違っていたようです。

    • machii.narufumi より:

      >maruさん
      昭和51年ですか・・しかし興味深そうな本です。
      八文字は「外」と「内」があるようですね。吉原は外で、京都が内だとか。えぇ、それ以上のことはよくわかりませんが(笑)

      あ、コメントはイタズラ防止で承認制にしているんですm(__)m

  2. min min より:

    芳町…他界した父の除籍謄本から、この辺りを本籍とする女性の養子であったことがわかりました。自分の旧姓であったにも関わらず、血縁関係のない女性。父はその方について語ることは一度もありませんでした。
    戸籍上だけだったのか…実際に育てられることはなかったのか…
    悲しい物語しか思い浮かびません。

    26年間私の本籍地であったこの地のことを少しづつ調べるつもりです。
    参考にさせていただきます!

    • machii.narufumi より:

      きっとお父様には、身内にも語ることのできない苦しい胸の内があったのではないでしょうか。
      私の拙い文章が何かの足しになるのであれば嬉しい限りです。
      大変だと思いますが、頑張ってください!

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