3回に渡って取り上げてきた灘区、水道筋エリアの市場群もいよいよ今回が完結編。
最後に紹介したいのが水道筋商店街の一本北側に並行する、名に「畑原」がつく市場群である。
復習しよう。
水道筋は大正時代に西宮~神戸間に敷設された水道管の上を通る道で、正式名称は『市道坂口石屋川線』であった。
実はこの頃、今日紹介する畑原市場あたりはすでに活況を呈しており、それゆえ名前が水道“筋”となったのだそうだ。
“筋”というのは、いわゆるメイン通りにあたる“通”の脇道を表す呼称である。
さて、水道筋商店街からさらに東へ進むとアーケードのない商店街が続いている。
すなわち『水道筋1丁目商店街』である。
ここを2ブロック進み、一本北側の路地へと足を踏み入れると・・
畑原東商店街
水道筋商店街とは一線を画す、“THE 昭和”な『畑原東商店街』が眼前に現れる。
何という昭和レトロテイスト。
泣く子も黙るコンクリート舗装。
この圧倒的破壊力はどうであろう。
この令和の時代にこそ、足を運ぶ価値のある唯一無二の素晴らしい雰囲気である。
おっと。拍子抜けするほど短い商店街であっという間に通り抜けてしまった。
抜けたところを側面から眺めてみよう。
六甲山系がよく見える。
そうじゃない。
向き合うように、別の商店街が続いているではないか。
東畑原市場
2つ目は『東畑原市場』。
何とも名前が似ていてややこしいが、こちらは先ほどよりだいぶキレイめな市場だ。
ときどき見かける、壁面をアート仕立てにした商店街だった。
E.T. phone home…..📞
どうでもいいけど、このE.T.はもう何年も前からここにいるようだ。
一体何の店なんだろう。
この東畑原市場が成立したのは戦災後で、空襲で焼けた灘区役所跡に出来たのだとか。
なるほど、この場所には元々区役所があったのか。
この市場は結構長い。体感的には畑原東商店街の1.5~2倍ぐらいの長さがあるように思える。
かまぼこ屋さんが渋すぎて泣ける…。
西側入口。
こうして外から見ると、いかに年季の入った建物だったかが一目瞭然だ。
昭和20~30年代頃の代物であることは明白だろう。
反対側から少し引いて眺めてみた。
遠くに見えるマンションとの対比がなかなか強烈な光景だ。
さて、では次の市場へ・・ん?
畑原東市場
さっきと名前一緒じゃん。。?
と思った紳士淑女の皆さんは、残念ながらあまり洞察力があるとは言えない。
今一度おさらいをしよう。
東端:畑原東商店街
2番目:東畑原市場
3番目:畑原東市場
見ての通り、すべて名前が違う。
もしこの市場の名前と位置関係を問う試験があったとしたら、これほどの難問もないであろう。
って言うか、どうしてこういう名前になったのか…。
この畑原東市場。
ここもお隣、東畑原同様戦災からの復興組である。
元々は別の商店街の一部だったのだが、昭和33年に独立して『畑原東市場』となったのだそうだ。
これがややこしい名前になっている所以のひとつである。
ここはいくつか営業中の店があった。
もしかしたら、平日だったらもう少し開いてる店があったかもしれない。
西側の入口。
市場はそこで途切れ、青空が広がっていた。
しかも、『畑原東市場』を歩いてきたのに『畑原市場』と書かれていた。
これは一体。。?
畑原市場
振り返ると、妙に真新しい工事現場が広がっていた。
実はここにはつい3年前まで『畑原市場』と言う市場が伸びていた。
そして『畑原東市場』は独立する前、ここの一部だった。
これが先ほどの疑問における真相である。
ちなみにこの『畑原市場』は、西側で『灘中央筋商店街』と繋がっていた。
最後に、すべて図示した状態で位置関係を提示しよう。
これが水道筋の市場群の全貌である。
ついでに、灘中央筋商店街側の入口も新旧で並べておこう。
わずか1年半前まで現存していたと思うと、なぜもっと早く行かなかったのか・・と自分を呪いたくもなったが、まち歩きにしろ老舗旅館にしろ、早く行くに越したことはないと、改めて思った水道筋の市場群であった。
完。
[訪問日:2021年11月14日]
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