千葉県は佐原にある小野川沿いの町並み保存地区を訪れたとき、まさか目と鼻の先にこんなすごいものがあるとは思いもよらなかった。完全に意表を突かれた格好になり、事実を知ったときはさすがにほぞを噛む思いだった。
というわけで、約半年後に再訪。ここから先は、そのときの後日談となります。
前ページの最後に掲載した「ゆかりなつかし云々」の碑の背後に、Y字に伸びる路地がある。
この先に、重伝建地区の陰で観光客に悟られぬよう息を潜めながら、したり顔で街に溶けこむ元色街の風景が残っているのだ。
花街と思われる元色街
一歩足を踏み入れると、図らずもそのあまりのギャップに打ちひしがれそうになる。
観光客は保存された“外向きの姿”を愛で、満足気に家路に着く。だが、残念ながらそれではこの街の本質を知ったことにはならない。
小野川沿いからここまで、わずか50m。走れば6~7秒の距離を隔てた先に、額面通りの異次元なワールドが広がっている。
これなどなかなか壮絶な光景だと思いませんか。この辺から自然とアドレナリンも噴出してくる。
そもそもここ何なの?って話になるので、おなじみ、『よるの女性街・全国案内版』から佐原に関する記述を引用してみる。
釣師がよく遊ぶ。芸者三〇名で花代一時間二五〇円、次時からは二〇〇円。美形は更になし
という具合に、佐原にはかつて花街があったそうなのだが、果たしてこの場所がそこだったのかどうかはよくわからない。でも、普通は人が集まるところだよな、というわけで、そう決めてかかったほうがこの後の展開が非常に楽なんです(笑)
先ほどの赤レンガ風の建物の向かいにある、こちら。そのドア部分に注目。
そこで目にしたモノとは果たして・・
どん!!
風俗営業(料理店)
の鑑札が登場。
この通りの突き当たり、T字路の角に旅館がぽつんと一軒。
かつて船乗りを相手にした老舗旅館なのか、色街の系譜を継いだ転業系なのか、上っ面だけではイマイチ判然としない。
さらに細い路地へと分け入ると、場末感という名の瘴気が一段と濃くなってくる。
この『小料理屋みどり』はGoogleマップにもその名が載っている。けれど、いつ廃業したのかまるで判らないほど風化の進行が著しい。
【2017年8月追記】
みどりさんは解体されて更地になってしまったようです
こうしてここに佇んでいると、リアルに昭和30年代から時が止まったような錯覚を受ける。
しかし、改めて思う。重伝建地区とのギャップがあまりにも凄い。
求む ホステフ
ホステフってw
小料理屋なんだからどっちかと言うと仲居さんじゃないのとツッコみたくなるが、そこはあまり触れちゃいけなさそうな気がする。
その『みどり』の横に建つ料亭風の建物。
どう見ても廃屋なんだけど、ここでまたしても見つけてしまったのが・・・
【2017年8月追記】
こちらの建物も解体されて更地になってしまったようです
ばーん!!
千葉県公安委員会お墨付きの
風俗営業( )
カッコの中は何が入るんだろう(´・ω・`)
そんなこんなで、ごく小規模ではあったようだがここには花街があったと見てほぼ間違いないようであった。
水郷の街、佐原。
もちろん重伝建地区の町並みは文句なしに素晴らしい。それこそ疑う余地もないほどに。
しかし、その裏に隠された保存とは無縁の滅び行く町並みもまた、愛でるべき対象だと筆者は思うのだ。
水運で栄えた街を陰ながら支え続けた功労者。そんな路地裏にも、是非セットで足を運んでいただければ幸いである。
※2022年11月に久しぶりにこの場所を訪れたのですが、解体された2棟以外はほとんど変化がなさそうな感じでした
[訪問日:2015年6月28日]
佐原駅
コメント
佐原は意外と見所多いです。
駅付近の商店も昭和していますし、
また、遊びに来てください。
そうですか。二回とも電車じゃなかったので駅付近は見れなかったのですよ。
是非また再訪しますね!
最後の路地裏の付近は、嘗て東海酒造があった所の裏ですね。
佐原の厳密な地名は『田中か、新上川岸ね』
毎年、夏、秋は佐原は大きな祭りが有りまして、撮影された所の裏の駐車場で車を止めて
祭り見物してますよ。
小料理みどりのそばの建物は、数年前まで住んでいた様な・・・高齢な方でしたが。
古い世代の人の話だと、佐原、木更津、銚子(だった筈)
金があったら散在する恐ろしい場所だったとか・・・・
地元の方の貴重なコメント感謝します。
佐原、木更津、銚子。すべて遊里があったところですね。納得です。
木更津はずいぶん前に歩いたので、近々きちんと歩こうと考えてます。銚子は訪問済なので、将来的にアップされる予定です。いつになるかわかりませんが・・
うちの曽祖父は遊びが過ぎちゃった人。3回結婚して、私の知ってるひいおばあちゃんは元々真面目な仕事じゃない系の人です。
色々と面白エピソードがあった人で、息子の大伯父が戦時中に出征する際には、ゆかりの女性たちがズラリと集結して、「坊ちゃん万歳!」とやったそうです。
佐原は江戸への水運で栄えた街なので、江戸仕込みの「遊び」とか、「余裕」みたいな文化がありました(さすがに江戸と比べると品とか粋の部分では比較は出来ませんが)。戦後徐々にそういう文化は廃れましたが、昭和50年頃、つまり佐原が現役の街としての最後の隆盛期くらいまでは残っていたようで、私の七五三のお祝いにも芸者が同席していたとのことです。
重伝建地区とのギャップ、と書かれてましたが、まさに現役の街からの凋落と、過去への回帰を売り物にする現状を象徴していますね。
栄えていた時代の佐原の様子がありありと浮かんでくるようなものすごいエピソードですね。
街の繁栄に「遊び」はつきもので表裏一体と言いますか。そういう場所をたくさん見てきましたが、佐原のように保存地区になった場所はその裏で凋落した遊里が見られるようなところもまた多いです。
昭和50年頃までまだ現役だったというのは驚きです。
貴重な体験談をありがとうございました。