土佐の大料亭『陽暉楼』があった玉水新地を歩く

高知県
この記事は約3分で読めます。

高知市にあった「玉水新地」は、明治5年に成立。昭和5年の時点で貸座敷27軒、娼妓224人とその隆盛ぶりを伺うことができる。以上は、昭和5年の『全国遊廓案内』による。

また、『陽暉楼』の舞台となった料亭、「得月楼」があったことでも知られている。明治3年創業の料亭で、元々は陽暉楼だった名前を明治11年に「得月楼」に改称。明治25年に鏡川河口付近に建てられた大料亭、「新・得月楼」が小説の舞台となった場所で、現在では生け垣の跡だけが同地にひっそりと残っている。

16

水路沿いの旅館街の様子はわかったので、適当なところで路地を北に折れて界隈をもう少しくまなく見て行くことにする。
いきなりこんな香ばしいバラック家屋がこんにちは。

スポンサーリンク

赤線的雰囲気の残る一角

17

その前に、どう見ても赤線時代のそれと思われる酒場のなれの果てが目の前に現れ、視線が釘付けとなった。

18

この侘びしさに満ちた情緒はどうであろう。間違いなく新年早々、しかも青空の下で見るべき対象ではないのだが、それを理解しながらも喜々としてシャッターを切る自分にもう何も感じなくなったのは、きっと慣れではなくネジが外れたんだと思う。

19

真ん中、モノトーンの店にカフェーの鑑札が残っていた。高知県のはなかなか面白い。半月型ですか。それとも上半分が千切れたのか。

20

右端、スタンド夏子と書かれたお店だけはおぼろげながら生活の香りが感じられる。

21

此処から先はあまり見所もないんですが、特段目についた古い家屋をぱしゃぱしゃ撮っていったので軽く紹介いたしましょう。

22

この日で四国入りしてからはや5日目だったのでもう驚かなくなっていたが、とにかく古い民家が多かった。

23

特筆すべきは、トタンで覆われたバラックが異様に多かった点である。
色街だけに、戦災から急ピッチで復興したとかそんなんでしょうかね。

24

国道33号線に出る手前の路地で、またしても酒場密集地帯にお目にかかった。
目と鼻の先には、「旭町一丁目」の電停がある。遊客をターゲットにしていたのは、立地的に一目瞭然であろう。

25

店主が交代したのか、途中で店の名前が変わった痕跡を残すスナックは、しかし年末で店を閉じてしまったことが貼り紙に記されていた。

26

昭和30年代どころか、リアルに戦後臭が漂う香ばしい物件がこれでもかというぐらい登場するので、撮り歩くのもなかなか忙しい。

27

こういう風景って日本中探せばまだまだ残っているのに、都心に住んでるとそれが新鮮に映るから不思議である。
住人からしたらごく普通の「日常」で、珍しくもなければ新鮮でもない。
そう考えると、大都市圏で生きる人と地方で生きる人の間には、感性の上ではそう簡単に越えられない隔たりがあるような気がする。

28

古い街を歩くのは好きだけど、それは日常で味わうことのできないなにものかを得ることができるから楽しいと思うのであって、もし地方に住んでこの風景が日常に組み込まれたら、この感情は失われてしまうかもしれない。

そんなことを考えさせられた玉水の町並みであった。

陽暉楼はいい映画です。是非一度ご鑑賞あれ。

[訪問日:2015年1月2日]



コメント

  1. maru より:

    我母が宮尾 登美子が好きで、よく作品読んでいました、、、
    私は、それほどではないのです。

    しかし、トタン家といい赤線系の飲み屋といい
    味のある街ですね。

    • machii.narufumi より:

      と、いうことは陽暉楼もよくご存知ということですね。
      逆に僕は原作を読んだことがないのですが・・

      えぇ、玉水はなかなか印象に残る街でした。

  2. kx125 より:

    赤いテントの「スナック夕星」には,閉店になる半年ほど前に一人でふらりと入ってみました。80歳過ぎの品のいいママが,昔の話をいろいろと聞かせてくれましたよ。

    • machii.narufumi より:

      コメントありがとうございます。80過ぎのママから昔の話ですか・・いやはや興味深い話です。昔はさぞかし賑わっていたのでしょうね。

  3. as1ss より:

    懐かしい風景に涙が出そうになりました。ありがとうございました。1960年代から70年代が終わるまで近くに住んでいました。と言っても住んでいたのは電車通りの向こう側ですが…。その後、遠くに移り住んでから30数年。当時「スナック夕星」の向かい側には、戦前の雰囲気を満点に漂わせた木造の内科医院もありました。(当時はあちらの病でさぞかし繁盛したことでしょう。)その横を脇道に入るとアダルト映画館もありました。当時小・中・高校生だった私は毎日の通学路がこの町でしたので、当たり前の風景で何とも思わなかったのですが、ここが特別な場所だと気づいたのは中学生後半でしたね。(私は行きませんでしたが)悪友は中学生の時にそのアダルト映画館に入ったこともありました。入口のおばちゃんもわかってて見逃していた…おおらかな時代でした。

    • machii.narufumi より:

      私としては決して知り得ることのない「生きたお話」です。こちらこそお礼を申し上げます。
      玉水も、当時はさぞ活気があって賑わっていたのだろう、ということがよく伝わってきました。今では想像もつかない世界ですね。そう言えば以前どこかの色街近くに住んでいたという方も、子供の頃はどういう場所かよくわからなかったと仰ってたのでやはりそういうものなのですね。
      私の場合は研究とかではなくただ好奇心で歩いてるだけなのですが、こんな拙文でもお役に立てて嬉しいです。ありがとうございました。

  4. Drhiroshi より:

    私、80年代の始めに中学生となった高知市在住の者です。家の方向とは違うので、まれに何かの折に通りがかるたことがありました。
    夕方に通りがかると、道路より一段低いところに古い旅館が7〜8軒並び、その暗い玄関先に青く屋号を示すライトがボウっと灯いており、さらに闇を深めておりました。
    その灯の横の暗がりには、客との交渉を受け持つのでしょうか、遣り手ババア?が椅子に座って団扇を使っていたりしました。
    確かに周辺は住宅街(ただし訳あり感あり)ですが、旅館街の部分は異世界感を強烈に放っており、通りがかりの中学生である私にも何か通常ではない歴史のある街だということばわかりました。
    その頃、暇つぶしに吉行淳之介の赤線地帯などを読み、なるほど、玉水という名前だし、あの雰囲気は青線地帯ではないか?なんて考えてたことを覚えてます。
    その頃からうら悲しく、消えゆく街感満載でしたが、まだ営業があるとはある意味すごいことです。
    以前に横浜の日の出町ですか、あの辺りに雰囲気が似てるように感じました。

    • machii.narufumi より:

      ご丁寧なコメントありがとうございます。
      35年ほど前の話になりますでしょうか。表向きにはずいぶん前に役目を終えた街ではありますが、その当時でもまだまだ現役だったことがよく伝わってきます。
      私も自分で確認したわけではないので定かではないですが、今でも営業しているとしたらすごいと思われる気持ちはよくわかります。
      ただ、もう先は長くないでしょう。何年か経ってもしなくなってしまってから、また昔を懐かしみながら歩いてみたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました