土佐の大料亭『陽暉楼』があった玉水新地を歩く

高知県
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かつお、はりまや橋、よさこい節、そして龍馬。
南国、土佐。と聞いてこれだけ思いつけば十分だと思う。

とは言えど。やはり、『陽暉楼』を忘れてはいけないであろう。
映画にもなった、高知随一の大料亭。その陽暉楼があったのが、かつて「玉水新地」と呼ばれていた花柳街だ。

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その名のごとく。「高知市玉水町」なのである。通称と現在の地名が完全一致している希少な例と言える。
高知駅から西へ約3km。最寄り駅はとさでん(路面電車)の「上町五丁目」である。ここからたかだか徒歩2分ほどと訪問者に実に優しい。

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前方に見えていたカフェーな物件はやはりカフェーな物件だった。
すでに現在地が元色街であることを旅人に示している。

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小ぶりなファサードと相反してかなりの奥行きを有していた。
玉水新地は、現在では遊郭時代からの転業旅館が数軒営業する静かな住宅街である。
何も知らない者の目にはおそらくそのように映るであろう。

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土手下の異界

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車道脇にもはやドブ川にしか見えない細い水路が流れており、橋で渡された一段低い場所に旅館が並んでいる。
そう、ここがくだんの場所なのである。

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旅館街をじっくり眺める前に。はやる気持ちを抑え、車道側を見やるとカフェー調の住宅がもう一軒。
窓と窓の間には豆タイルが設えられている。

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脇道に入ると、元妓楼のようにも見えるスタイリッシュな廃屋が朽ち行くままに放置されていた。
ここだけ青空とは似ても似つかない退廃的な空気に包まれている。

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いよいよ視線を土手下の旅館街にロックオンする。
この風景こそが玉水新地の代名詞であり、人に説明する際にこれ以上わかりやすい情景描写もない。

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土手の上から旅館街を俯瞰すると、すぐに“あること”に気がつく。
各旅館の入口付近に、あたかも粗大ごみでも置いてあるかのようなぬけぬけしさで「椅子」が設置されているのである。

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その用途を、ここでわざわざ説明する必要もないであろう。
そう。この街は「現役」なのである。今もまだ生きているのだ。

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夜に歩いたわけではないので明言は避けたいところではあるが、遊び場としては完全に地元の馴染客向けであるという。
客も嬢もおばちゃんもそろって高齢化してしまい、一見、ましてや若者が行くような場所ではないそうである。

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黄緑の豆タイルほど美しいものもないと思う。やはりこの色が見ていて一番安らぐ。

昭和33年の売防法完全施行を経て、存続、廃業でまず分かれたのが約60年前。
全国各地に残るこの手の商売も、建物の老朽化、店主の高齢化という抗することのできない問題に直面し、今がまさに過渡期である。
(もちろん潰された街もある)

このままなくなってしまうのか、建物がつぶれない限りは代替わりで頑張るのか。その行く末を見守ることのできる我々世代は、ある意味幸運なのではないかとさえ思う。

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旅館街の西側、端っこまで来てしまった。ここまでで、それっぽい旅館は全部で7軒あった。
ドアが開いているのもあったので、もしかしたら営業していたのかもわからぬ。

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それにしても、ここの旅館たちは転業と言えどもあまり妓楼っぽさが感じられない。
目立たぬよう、外観ごとまるっと変えてしまったのだろうか。

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そもそも、一見して旅館っぽくないし、何も知らない者には、なぜこんな住宅街に旅館ばかり並んでいるのかそもそもわからないであろう。
それぐらい周囲の風景になじみ、溶け込んでいるのだ。

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土手の上には、完全に民家に装いを変えた旅館まであった。シロかクロかはわからぬが、クロだとしたらまさにカメレオンである。
この街のしぶとさ、強かさのルーツは、おそらくこの辺りに秘められているのだろう。
「郷に入りては郷に従え」、である。

(2ページ目へ続く)

コメント

  1. maru より:

    我母が宮尾 登美子が好きで、よく作品読んでいました、、、
    私は、それほどではないのです。

    しかし、トタン家といい赤線系の飲み屋といい
    味のある街ですね。

    • machii.narufumi より:

      と、いうことは陽暉楼もよくご存知ということですね。
      逆に僕は原作を読んだことがないのですが・・

      えぇ、玉水はなかなか印象に残る街でした。

  2. kx125 より:

    赤いテントの「スナック夕星」には,閉店になる半年ほど前に一人でふらりと入ってみました。80歳過ぎの品のいいママが,昔の話をいろいろと聞かせてくれましたよ。

    • machii.narufumi より:

      コメントありがとうございます。80過ぎのママから昔の話ですか・・いやはや興味深い話です。昔はさぞかし賑わっていたのでしょうね。

  3. as1ss より:

    懐かしい風景に涙が出そうになりました。ありがとうございました。1960年代から70年代が終わるまで近くに住んでいました。と言っても住んでいたのは電車通りの向こう側ですが…。その後、遠くに移り住んでから30数年。当時「スナック夕星」の向かい側には、戦前の雰囲気を満点に漂わせた木造の内科医院もありました。(当時はあちらの病でさぞかし繁盛したことでしょう。)その横を脇道に入るとアダルト映画館もありました。当時小・中・高校生だった私は毎日の通学路がこの町でしたので、当たり前の風景で何とも思わなかったのですが、ここが特別な場所だと気づいたのは中学生後半でしたね。(私は行きませんでしたが)悪友は中学生の時にそのアダルト映画館に入ったこともありました。入口のおばちゃんもわかってて見逃していた…おおらかな時代でした。

    • machii.narufumi より:

      私としては決して知り得ることのない「生きたお話」です。こちらこそお礼を申し上げます。
      玉水も、当時はさぞ活気があって賑わっていたのだろう、ということがよく伝わってきました。今では想像もつかない世界ですね。そう言えば以前どこかの色街近くに住んでいたという方も、子供の頃はどういう場所かよくわからなかったと仰ってたのでやはりそういうものなのですね。
      私の場合は研究とかではなくただ好奇心で歩いてるだけなのですが、こんな拙文でもお役に立てて嬉しいです。ありがとうございました。

  4. Drhiroshi より:

    私、80年代の始めに中学生となった高知市在住の者です。家の方向とは違うので、まれに何かの折に通りがかるたことがありました。
    夕方に通りがかると、道路より一段低いところに古い旅館が7〜8軒並び、その暗い玄関先に青く屋号を示すライトがボウっと灯いており、さらに闇を深めておりました。
    その灯の横の暗がりには、客との交渉を受け持つのでしょうか、遣り手ババア?が椅子に座って団扇を使っていたりしました。
    確かに周辺は住宅街(ただし訳あり感あり)ですが、旅館街の部分は異世界感を強烈に放っており、通りがかりの中学生である私にも何か通常ではない歴史のある街だということばわかりました。
    その頃、暇つぶしに吉行淳之介の赤線地帯などを読み、なるほど、玉水という名前だし、あの雰囲気は青線地帯ではないか?なんて考えてたことを覚えてます。
    その頃からうら悲しく、消えゆく街感満載でしたが、まだ営業があるとはある意味すごいことです。
    以前に横浜の日の出町ですか、あの辺りに雰囲気が似てるように感じました。

    • machii.narufumi より:

      ご丁寧なコメントありがとうございます。
      35年ほど前の話になりますでしょうか。表向きにはずいぶん前に役目を終えた街ではありますが、その当時でもまだまだ現役だったことがよく伝わってきます。
      私も自分で確認したわけではないので定かではないですが、今でも営業しているとしたらすごいと思われる気持ちはよくわかります。
      ただ、もう先は長くないでしょう。何年か経ってもしなくなってしまってから、また昔を懐かしみながら歩いてみたいと思います。

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