四国一の規模を誇る特殊浴場街、高松・城東町の様子をざっと眺めてきましたが、もう少し続きますのでしばしおつきあいください。
ほとんどが風俗店かと思いきやそんなこともなく、中には民家や倉庫もあれば会社のオフィスなんかもあった。
お風呂屋さんは奇抜な外観のどでかい建物を構える一方で、お風呂がないライトな業態のお店はビル同居型という現実。
会社でいう、本社が自社ビルか賃貸ビルかの関係に似ている。
でも、見ての通り業績はあんまり芳しくないようで。
なんだかこれだけ圧巻の光景を見せつけられると、高松のみならずうどん県全体にそういう印象を持たれそうだけど、実は香川はこの手の店は条例で禁止されている。
ここ城東は例外的に認められた場所で、県内にはもう一ヶ所、以前書いた琴平がそれに該当する。
赤線時代にその名の語源にもなった、地図に赤線で囲まれた特飲街と同じ扱いと言えようか。いわゆる指定区域というヤツですね。
萬民快楽
さて。半島の付け根のあたりにある「東濱恵比須神社」。ここに新地時代の名残を示す物証が残っている。ちなみに「東浜」は城東町になる前の昔の地名。
鳥居に刻まれた『萬民快楽』が秀逸すぎて思わず唸ってしまう。
玉垣に「新地睦会」の文字が見られる。戦後赤線時代のものだそうで、いわゆる組合みたいなものだと思いますが。
そこにはずらっと屋号と楼主(店主か?)の名が彫り込まれており、新地と神社が密接な関係にあったことがよくわかる。
境内に入ると、お稲荷さんが鎮座している。これまた遊女たちの信仰を一身に集めていたことが容易に想像できる。
ちなみに、遊郭の周囲に稲荷神社が多いのは、江戸時代、稲荷信仰が大衆信仰として大いに流行り、遊女たちが自らの健康を祈念したから、というのがその起源。
当時の遊女と言えば、貧農の娘が今の女子高生くらいの年齢で家を助けるために前借で女衒(ぜげん)に売られ、過労や梅毒によって二十歳やそこらで命を落とすという過酷の極みとも言える苦界に身を置いていた。神仏にすがりたい気持ちもよく理解できる。
いやむしろ、心の安息のために欠かせないものであったのだと思う。
何やら漢文のような小難しい文字がびっしり刻まれた石碑が建っていた。
「読める!読めるぞぉ!」と口走りながら読んでいたところ、ある一点で目が止まった。
藩主歴代崇敬篤く享和の初め東濱に新地を築き
と書かれているではないですか。
ってことは、新地自体は1800年頃に成立し、正式に遊郭が置かれたのが明治初年。と考えるべきかな。
恵比須神社は、創建ははっきりしないものの江戸初期にはあったようで、もともとこの土地の産土さんだったみたいですね。
「和楽」という店名は、「萬民快楽」からインスピレーションを得たのかな。まさかね。
赤線時代の遺構は、実はもうちょっとあったらしいというのを後から知ってちょっと口惜しい思いをした。
いつもならすべての路地をきっちり歩くのに、客引きのボーイが多すぎて「もういいや、たぶんなさそうだし」ってなったのが敗因。
これだから現役の街は嫌なんだ。。
この豆腐メンタルをもうちょっとなんとかしたい。今後の課題といたします。
[訪問日:2015年1月4日]
コメント
数年前までこの近辺の会計事務所でアルバイトしておりました。水道代ガス代がエラい高かったり給与計算が理解できん事業所があったのを懐かしく思い出しました。
近くの古老は、昔は水揚げ人夫に大人気のエリアだったとか、更に古くは海上に停泊した船まで小舟が行き来していたとか話していました。
コメントありがとうございます。
どれも城東ならではの興味深いお話ですね。
しかし、高松におちょろ舟の文化があったのは初耳です。古老の話であれば間違いないでしょうから、ちょっと驚きました。