小姓町を後にし、さらにてくてく北へと向かう。レンタカーの予約は9時なので、ここで戻ってもまだ早い。これが夜行バスユーザーのつらいところである。
途中、旧片町で見かけた洋風建築。大正時代と言ったところか。
意外にも、山形市は空襲に遭っていないのでこの手のレトロ建築が比較的多く残っている。
隣の蔵は漆喰を塗り直したのかずいぶんキレイだ。
少し進むと、段々場末じみた雰囲気になってきた。実はこの先の七日町が、山形市随一の飲み屋街となっている。そして奇遇にも(そんなわけはない)、筆者の目的地もその七日町なのだ。
曰く、山形市の盛り場は、駅前、小姓町、そして七日町に分散しているという。地味に駅から遠いが、街の成り立ちを知る者であればそんな疑問も一瞬で氷解する。
小姓町は遊郭、そして七日町はかつて花街だった。
千歳館
その七日町の代名詞とも言えるのが、この老舗料亭「千歳館」。創業は1876年(明治9年)。
現在の建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
千歳館は明治44年の大火で焼け落ちてしまい、大正4年に現在の場所で再建。このあたり、当時は桑畑だったそうな。
そのときの千歳館の当主が三業地としての街づくりを目指し、そんなわけでこの地は花街として発展していくことになる。
花小路
で、ここが七日町の目抜き通り、花小路。どうでもいいけど「なのかまち」だと思ってたら違うのね。正しくは「なぬかまち」。お間違えのないよう。
昭和初期には100人を超す芸妓がいたそうであるが、娯楽の多様化、芸妓の高齢化、後継者不足などによって昭和40年頃から始まる花柳街の衰退は、全国どこでも同じ。
しかし山形では、伝統芸能をなくしちゃあかんぜよ、と平成8年に商工会議所や観光協会の手によって「やまがた舞子」が誕生する。
その当時、すでに芸妓数は10数人まで落ち込んでいたという。まさに起死回生である。
こないだ書いた秋田川反もそうだったけど、今全国的に、花街の衰退にじわじわと歯止めがかかり始めてるようですね。
やっぱり人間切羽詰まったら強いんですよ。逆に言うと、それぐらいのとこまで来てしまった、ということでしょうけど。
舞妓の話に夢中になってまったくレポートしてませんでした。すでに七日町界隈を歩いておりますw
目抜き通りは石畳がなかなか雅でした。端まで来たので、並行する細い路地に向かいましょう。
で、この路地に足を踏み入れると景色ががらっと一変します。
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コメント
たしかに千歳館はすごいですね。
いまでも、使われているようで
まだまだ、生き残りそうでよかったです。
保存の意思がある建物は長生きしますよね。見捨てられると場末の飲み屋街でよく見かけるヤツらみたいになっていくわけです(笑)