道玄坂、宮益坂、スペイン坂…
なんと坂の多い街であろうか。もう何年も前、初めて渋谷を歩いたときの感想である。
元々谷底の街だったというのを知ってあぁそうだったのねと納得した渋谷に、まさか将来自分が勤めることになるなんて当時はまったく予想だにできなかった。
エネルギッシュな若者の街というのはあまり好きではなく、少し薄汚れた場末感漂う下町が好きな筆者にとっては、ここで過ごした期間は正直あまりいい思い出がない。
ただ、それでも幸いだったのが職場が円山町にあったことである。
花街だった円山町
この日、久しぶりに道玄坂を上り向かった円山町には、明治時代以降に巨大な三業地ができ、絃歌さんざめく狭斜の巷として長らく不動の地位を築いていた。
もっとも、今では東電OLの事件とホテル街という強烈なイメージがこびりついているちょっと残念な街でしかない。
道元坂上交番を右手に折れ、神泉駅方面へ向かうとぽつぽつ花街の名残が現れる。
元々土地勘があるのと、以前リサーチがてら夜に歩いたことがあったので、この日ほど楽なまち歩きもなかった。
程なくして、以前料亭だったと思われる年季の入った居酒屋が現れる。右手のビルはかつて見番があった場所である。
『全国花街めぐり(昭和4年)』によれば芸妓置屋130軒、芸妓400~410名、料理屋20軒、待合180~190軒と、ありえないぐらいの規模だったことが記されている。こうもある。
両側に並ぶ家々は芸妓屋にあらずんば待合茶屋、待合にあらざれば即ち芸妓屋で・・
要するに、そういうところだったようです。
その後、昭和30年代からゆるやかに花街も衰退していき、料亭数、芸妓数が減るとともにラブホが徐々に増えていき、現在の円山町の原型ができていったという。
そして平成に入り三業組合も解散。ただ、芸妓は今も数名健在で呼ぶことのできる料亭もまだ残っている。
坂があって細い路地が入り組んで古い建物がそこかしこに残り・・
一度この地を歩くと、イメージが先行しているせいもあろうがいわゆる「魔窟感」を強烈に感じることができる。
かつて料亭「斗美田」だった建物。今はおでん割烹ひで。先述した、芸者衆を呼べる数少ない料理屋である。
わだつみ(右)と割烹三長(左)。界隈ではもう数少ない往時の建物。
かつては黒塀であったようであるが、新調したのかキレイになっていた。とは言え、もっとも当時の雰囲気をよく残す建物であることに変わりはない。
向かいに建つのが料亭「良支(よしき)」。
こちらは完全に建て替えてしまったような趣き。
その横にも雰囲気のある建物。待合か何かだろうか。そう言えば見越しの松を見たのはここだけだったような気がする。
そのすぐ近くに、ここで働いてた頃によく行った安酒場「すみれ」がある。あとから気づいたんだけど、たぶんこれも元料亭の建物を改装したんじゃないかな。
夜に通ると、とにかく外の雰囲気だけは抜群だった。(中はいたって普通の安酒場です)
あと残ってたのはこの建物。黒塀の赤ストライプがなんとも艶めかしい。
さっきの料亭「良支」がある四ツ辻の北側はホテル街になっている。が、その手前にどう見ても廃屋にしか見えないワクワクするような建物が立っている。
まるでフルボッコにされたボクサーのような有様。ああぁ…これはひどい。
以前来たときに見つけたもので、ずっと安否が気になっててこの日真っ先に確認したかった建物だったんだけど、まだなんとか生きてました。いやぁよかった。
名残としてはこんなところ。さて、そろそろずらかりますか。
※こちらの廃屋はすでに解体されています
しっとりとした情緒の街、円山町。かつての料亭の先には、人間の情欲を受け止めるためだけに造られた無味乾燥な構造体が同じ構図に収まる。
このアイロニックな光景を見たとき、もう花街としては完全に終わったんだな、と何とも言えない空虚な思いで心が満たされた。
児童公園の横にまで。これまた円山町らしい光景だと、思わず薄ら笑いをこぼさずにいられなかった。
人間というのはどこまで強欲な生き物なのだろうか。
あぁ、終わり方がよくないな。仕方ない、彼に登場してもらおう。
当時ネットで話題になった猫氏。いるかなぁ、と思って見に行ったらいました(笑)
こういうのを本当の癒し系って言うんだろうな。
っていうか、まだいるんですかね。この子。
おしまい。
[訪問日:2016年4月22日]
コメント
良い猫ですね。
ここも、行ったことがない。
人が多いところが苦手なもので。
円山町まで行くと人通り少ないので歩きやすいですよ。カップルは多いですが。。
人混みを避けたければ神泉からアプローチするという手があります。