船乗りたちの夢の跡。加賀橋立・北前船主集落を歩く

石川県
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江戸時代から明治時代にかけて日本を席巻した北前船。
常に遭難のリスクと背中合わせの命がけな航海ではあったが、成功すれば一気に億万長者にのし上がることができるビジネス。まさにジャパニーズドリームだった。

かつて“日本一の富豪村”と謳われた北前船主集落、加賀橋立でそのドリームを掴んだ「酒谷長兵衛」が建てた豪邸が一般公開されている。

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北前船の里資料館

別名、酒谷長兵衛邸は明治9年に建てられた船主邸。
敷地は約1,000坪。

入ってすぐ目につくのが「オエ」と呼ばれる30畳の大広間。
パンフレットに書かれている

柱に8寸角のケヤキ、梁には巨大な松、大戸には秋田杉の一枚板など、最高級の建材を使った建物

上記文言からは、“勝ち組感”がひしひしと伝わってくる。

梁の太いこと太いこと。

貴重品の収納に使われていた船箪笥。
職人さんの匠の技で完全防水仕様。その構造から海に投げても沈まないようになっている。
つまり、海難時は浮き輪代わりにもなる北前船の必須アイテム。

明治9年ということは、この建物はおそらく大火後に建て直されたものだろうと思う。
こんな凄まじい豪邸をしれっと建て直すことのできる北前船主の財力とはいかなるものだったのか。

それをまじめに考え出すと己の小物っぷりに絶望しそうになるので、そこはあえて気にしないようにしたい。

実は、そもそも北前船というのは運輸業ではなく、モノを売り買いした差益で儲けるというビジネス形態。
つまり、寄港地から寄港地へ、仕入れたモノを仕入れ値より高く売るのが彼らの仕事。
そう考えると、結構あこぎな商売だな、と思ったりもする。

まぁ、当時は徒歩で移動するしかなかった時代だし、よその土地のものが手に入るんなら多少高くても買うんだろうな、と。一般人はモノの相場なんて知らなかっただろうし。

船主や船員たちにしてみれば、命をかけてモノを運んでるんだから莫大な利益を得るのは当然、ぐらいに思ってただろうし、水運ぐらいしか物流がまともに機能していなかったあの時代に北前船はやっぱり必要なものだったんだろうなと思う。

大坂(大阪)を出て、瀬戸内海から下関を経て日本海へ抜け、あとは北海道まで点々と各地へ寄るいわゆる「西廻り航路」。

4月上旬に大坂を出て、帰ってくるのは晩秋か初冬だったらしいのでだいたい8ヶ月ぐらいだろうか。
1年の3分の2が船の上。現代の感覚に変換するとこうなる。

どこのマグロ漁船だよww

そのマグロ漁船が描かれた皿は、地元加賀の九谷焼。
きっとものすごく高いのであろうと思う。

この「北前船の里資料館」、建物自体もすごいんだけど、展示品もなかなか充実してて。
貴重な資料や珍しい資料が多く、解説パネルや音声ガイドで北前船のことがかなり勉強になる。

何より、当時の北前船主がいかに儲かる仕事だったのかがよくわかり、1年近く経つ今でもやっぱりそこが一番印象として残っている。

余談だけど、「船主集落」として重伝建になっている場所はもうひとつあって、それは同じ石川県の輪島市にある黒島地区である。

悲しみを乗り越えて・・輪島・黒島地区の天領な町並みを見る
まるで東映のオープニングのような荒波だった。沖から吹き付ける情け容赦ない北風に震えながら、この日ばか...

船絵馬館。地元加賀の神社に、航海の安全を祈願して奉納された絵馬を展示した土蔵。
確か土蔵は他にもいくつかあった記憶がある。

これは確か、当時の広告(チラシ)みたいなものだった気がする。全国各地のものがあってなかなか楽しめた。

こんなところで加賀橋立の紹介を終わりにしたい。
三国のところでも書いたけど、加賀地方はじめこのエリアは温泉も多く海の幸が豊富。
東尋坊も近いし、観光するにはいいところだと思う。

金沢とセットで1泊なんてのもいい。冬は雪や寒さで色々辛いけど、もうすぐGWだし連休の計画がまだの方は検討してみてはいかがだろう。

[訪問日:2017年5月5日]


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