沖縄最大の社交場、そして花街だった「辻村跡」を歩く

辻は色街である。

 

那覇市の「辻」と言えば、男性諸氏の表情筋と財布の紐が緩む一大歓楽街だ。
そこに異論を挟む余地はない。

だが、歴史を俯瞰してみるとただの色街では片付けられない史実が浮き彫りになってくる。
今回は街並みの様子をウオッチしながらそのあたりの話をしていきたい。

料亭那覇

渡名喜島から泊港に戻り、バスで辻まで移動した。
かつて那覇の三大料亭と呼ばれた「料亭那覇」のあたりから散策を開始した。

南国沖縄らしく、内地の料亭のような敷居の高さはまったく感じられない。
ウェルカムムード全開である。

現在の辻は、ご覧のように桃色要素が多めな文字通りの“桃源郷”となっている。

昔から言ってるけど現役の街は嫌いだ。
カメラ提げて歩くとか何の罰ゲームなのか、ってぐらい緊張感が高まるから。

料亭那覇とともに那覇の三大料亭の一角を担った「料亭左馬(さま)」。
近年まで建物が残っていたが、取り壊されて今では特養になっている。

往時の名残などまったくなさそうであるが、実は敷地内に料亭時代から建つ馬の銅像がそのまま残っている。

「三大料亭」とまで呼ばれた建物である。
やはりすべて壊すのは人情的に憚られるものがあったのだろうか。どうにもそんな気がしてならない。

スポンサーリンク
広告336×280

辻の歴史

辻は巷では「遊郭」だったと言われている。
今の姿からも容易に想像ができる通り、それはもちろん正しい。

ただ、“春をひさぐ場”であったという解釈はやや正しいとは言えない。

辻は社交の場であり、食事や芸事を楽しむ花街だった。
大料亭があることからも、そう言われればなるほど、と素直に納得がゆく。

京都の島原をイメージしてもらえば話が早いかもしれない。

もちろん今と同じことも行われていたが、それ以上に花街色の強い場所だったようだ。

辻が成立したのは江戸時代の1672年。
ここでは遊女のことを尾類(ジュリ)と呼んだ。芸妓、娼妓、いずれも尾類。
ただ、先述のとおり分類的には芸妓のほうが近いだろうか。

楼主のことは抱母(アンマー)と呼び、こちらも文字通り女性である。
遊女出身の抱母が多かったようだ。

辻は抱母と尾類、「チカネーングヮ」(貧困のため幼い頃に「辻」に売られた子)などで擬似的な家族を作り、小さな社会的集団を形成していた。

つまり女性のみの自治都市である。

これこそが、辻の最たる特徴、かつ他の遊郭では見られない突出した特異性だ。

そして、何よりも「義理・人情・報恩」を第一義的な教えとして生活を営んでいたと言う。

搾取と悲劇のイメージがつきまとう遊郭とはだいぶ毛色が違っている。

三大料亭最後のひとつ、「料亭松乃下」は松風邸と言う老人ホームになっていた。
「松乃下」はかつて尾類だった自らの半生を綴った自伝、『辻の華』を著した上原栄子さんが開業した料亭だ。

その老人ホームのすぐ隣に、遊郭時代の史跡が残っている。

一見、ただの鬱蒼としたこの場所がそれだ。

(2ページ目へ続く)