明くる日。
昨夜は暗かったので色々見落としてたものがあったかも、と思い再び西柳ケ瀬を散策。
柳ケ瀬商店街は、すごくアバウトに言うと東西南を国道に囲まれたエリアにまたがっている。
金華橋通りで東西に分断され、その西半分が西柳ケ瀬である。
岐阜には2005年まで路面電車が走っており、柳ケ瀬は電車でのアクセスが可能だった。
岐阜駅からは北へ1kmばかり離れており、歩くには地味に遠くバスを使うのも面倒くさい。
ここが衰退していったのはこれが一番大きかったそうだ。
東半分は再開発が着々と進行し、アクアージュ柳ケ瀬やドン・キホーテ、さらには映画館もあるなど新陳代謝が活発。
さらに、件の高島屋南エリアには地上35階の超高層マンション(低層階は商業施設)が建とうとしている。
それに対し、西柳ケ瀬のほうは飲み屋やスナックなどが多く、言わば大人の社交場のような雰囲気になっている。
再開発の手もまだこちらまでは伸びていないのか、完全に時代から取り残されたような風景が今でも残っている。
ほぼ全域に渡り全蓋式のアーケードが続いており、とにかくその広さに圧倒される。
ではその柳ケ瀬商店街はいかにして誕生したのか。
柳ケ瀬商店街のルーツ
明治後期にはすでに商店街の原型が出来上がっていた柳ケ瀬。
ところが、戦時下に大規模な空襲を見舞い、灰燼に帰してしまう。
余談だが、以前手力のところで触れたとおり、金津遊郭(現・金津園)は元々は柳ケ瀬にあった。
戦後、まず劇場がバラック小屋で復活し、人が集まったことで露店なども増えて行き、徐々に元の活気を取り戻していったそうだ。
昭和40年代には美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」がヒットしたことでさらに知名度が高まり、全盛期には肩をぶつけながら歩くほどの人だかりで柳ケ瀬商店街は文字通り一世を風靡した。
平成に入ってからは郊外の大型店が台頭し・・と地方都市お約束のやつで客足が減っていき、先述のとおり路面電車の廃止が追い打ちをかけた。
とまぁ、実に激動の三四半世紀を歩んできた商店街が今目の前にあるわけですな。色々感慨深い。
「すれ違えないぐらい人が多かった」「向こうのほうが見えなかった」「肩をぶつけ合いながら歩いた」
昭和30~40年代頃から残る商店街で昔を懐かしそうに語る人が異口同音に唱えるのがこの3点セット。
昔は買い物と言えば商店街だったし、商店街に行けばすべて揃った。
いい時代だよなぁ。
ただ、建物の老朽化と店主の高齢化、さらに後継者不在でどんどん姿を消してるのもその時代の商店街。
こればかりはしょうがないけど、「急がなきゃな」って思う。
振り返ってみれば、このブログで記事にした後に消えた商店街もいくつかある。
黄檗新生市場、亀甲マーケット、三和商店街など稀代の名市場たちが惜しまれながらこの世を去った。
最後に丸川センターの路地を眺めて締めようと思う。
なぜここには五輪のネオンサインがあるのか。
1964年、東京オリンピック開催を祝してネオンが灯されたのだそうだ。
実に半世紀以上もの間、この路地を行き交う酔客をカラフルな光で照らしていたことになろう。
昨年3月、“最後の灯”となったスナックさざめさん。
張り紙には、支えてくれた客への感謝の言葉が綴られていた。
この路地に明かりが灯ることは二度とないのだろうか。
このままなくなってしまうのはあまりに大きな損失と思えてならない。
半世紀ぶりに東京に戻ってきた平和の祭典を待つことなく、一足先に長い役目を終えたネオンサイン。
その祭典も、世界を震撼とさせた訳のわからないウイルスのせいで開催が見送られてしまった。
誰もいないはずの路地で、不意に何かの音が聞こえたような気がした。
気のせいかもしれないが、それは確かに柳ヶ瀬ブルースのメロディだった。
※最後に「丸川センター」を動画でご覧ください。
[訪問日:2019年8月11日]
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