「高取町」って知ってますか?
知りませんよね。いや、そうだと思います。
奈良県にあるんです。
って言われてもピンと来ませんか。
まぁ無理もないですね。
下手したら関西人でもこんなかけ合いが普通に行われそうな気がする。それぐらい知名度の低い町だと思う。
位置的には県の中部、古墳で有名な明日香村と吉野山の千本桜で有名な吉野町に隣接している。
中世には高取城の城下町として栄えた歴史を持つ町である。
近鉄の壺阪山駅から国道を越えたところが古い町並みが残る通り、通称「土佐街道」である。
この名前にはれっきとした由来がある。
大和朝廷の時代、都造りの労役で土佐国から移り住んできた人々がいた。
任務を終え、いざ帰郷しようとしたら朝廷からの援助がなくて帰ることができず、仕方なくこの地に住み着いたことから土佐と名付けられた。
故郷との縁を絶たれて生きることを余儀なくされた人たちがただひとつできたことが、ふるさとの名を今の場所につけることだったのだと言う。
とまぁ、一応現地にもそのあたりの説明が書いてあるので興味がある方は読んでみてつかあさい。
高取城が築かれたのは鎌倉時代末期の1332年。高取の豪族が、標高583mの高取山に城を築いたのがはじまりである。
その後、秀吉の時代に本多利久が城の整備、拡張を行い、同時に城下町も整備。
江戸時代には植村氏が城主となり、明治維新まで14代に渡って代々城主を務めた。
高取城は明治維新後に廃城となり、今では石垣や石塁のみが残っている。
にも関わらず、日本100名城にも選ばれさらには岡山の備中松山城、岐阜の岩村城とともに『日本三大山城』のひとつに数えられている。それはなぜか。
標高583.9m。
実は日本一標高が高い山城なのだ。さらに総面積もトップクラス、まさに日本最大級の山城なのである。
しかしここで考えてみて欲しい。
山登りを嗜む人は容易に想像できると思うが、自分の家が標高583mの山の上にあったらどうだろうか。
もちろん、当時は自動車なんてものはなく移動手段はオール徒歩である。
難攻不落が自慢の山城も、その不便さに耐えきれず、家臣の屋敷を徐々に麓に移して行くことになる。そりゃそうだろうと思う。
そうして山麓に武家町が形成されることになる。
そんなわけで城下町には武家エリアと町人地が地続きになって混在している。通りが違うとかブロックが違うとかはたまに見るけど、同じ通りに隣接するのはなかなかレアではないかと思う。
で、今歩いてるのが町人地だったほう。まぁ、いかにも商家ですって感じの厨子二階、虫籠窓物件が多いのであえて言わなくても、って感じでしょうけど。
キレイに修景された建物もあれば、名残を残したまま現代風にリノベーションされたのもある。
とは言え、驚かされたのは伝統的建造物の数が実に多いこと。
江戸時代には500棟もの商家が軒を並べていたというから、それもそうなのだろう。
とにかくいいほうで期待を裏切られまくった土佐街道の町並みだった。
くすりの町「高取」
高取は城下町だけではなく、実は「大和の薬売り」としての顔も持っている。
歴史は古く、飛鳥時代に推古天皇が聖徳太子を率いて高取で薬狩りをした記録が残っている。
自然が豊かで、薬になる植物が豊富にあったことが今日の地位へと繋がっている理由だそうだ。
製薬会社や販売店はもちろんのこと、土佐街道には「くすり資料館」なるものもある。
筆者は反対から来たため見逃してしまったが、壺阪山駅からほど近いところには「壺阪漢方堂」という三代続く薬局がある。
建物だけでも一見の価値がある、連子格子が美しい厨子二階の江戸町家スタイルの建物で絶賛営業中である。
奈良はかつて都が置かれていたこともあり、薬狩りや製薬にまつわる歴史はそれこそ枚挙にいとまがない。
以前記事を書いた宇陀松山も“薬草のまち”として知られている。
明治15年~平成30年まで「旧増田邸」があった場所。
驚くことに、現代の技術で厨子二階の町家が再建されていた。
ぱっと見CGのように見えなくもないが、紛れもなく本物である。
土佐街道の中ほどに、道の駅ならぬ街の駅がある。
その名も、『城跡』と書いて「きせき」と読む。
元JAの建物を改装した観光施設である。
手つかずの建物が残る一方、先の「城跡」のように観光客向けに生まれ変わったものもちらほらと散見される。
その最たるのがこちらの『夢創館』だろう。
大正時代の呉服屋を改装した観光案内所で、地場産品の販売も行われている。
ちなみに、先述の「くすり資料館」もこの中にある。
土佐街道の散策エリアは1kmちょっとと歩くのには程よい距離。
山城の麓という場所柄、緩やかな坂道になっている。
とある豪邸の敷地内に建っていた謎の洋館がひときわ目を引いた。
蔵か何かだろうか。
武家エリア
街道の、最も高取城に近いあたりが武家の名残を色濃く残すエリア。
まずこちらが、高取藩の筆頭家老の屋敷だった『植村家長屋門』。
なまこ壁が特徴的。
なお、こちらのお宅は最後の城主となった植村家の末裔がお住まいになっているそうだ。
そのお隣、右手に見えているのは現存する武家屋敷『田塩邸』。
こちらも、現在も住居として使われている。
武家地と町人地を分かつのがこの交差点、通称「札の辻」である。
見ての通り道標が建っており、ここが街道の分岐点だったようだ。
散策マップには、ここから高取城まで歩いて約70分と書いてある。
ちょっとまち歩きのノリで行けるレベルではなさそうだったので、このあたりで高取「土佐街道」の散策を終えることにした。
[訪問日:2020年9月27日]
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