最後に三木家住宅を見学して辻川の散策を締めることにした。
兵庫県の指定重要有形文化財に指定されている三木家。
三木家は秀吉によって落城した姫路藩英賀城主の末裔と言われており、1655(明暦元)年に福川の地に移ったと伝えられている。
現存する建物については、建築の年代ははっきりしないそうだが1737年という説があるとのこと。
なお、英賀城の落城は兵糧攻めで落とされた別所長治の三木城の2年後のことで、姫路の御着城とともに播磨三大城と称されていた。
入館料はなんと無料。
ちなみに柳田國男生家も神崎郡歴史民俗資料館も無料。
福崎町、ずいぶん気前が良いね。素晴らしい。
播但一揆の刀傷。
明治4年に起きた一揆らしい。
庭の雰囲気が良き。
福崎の大庄屋を務めていた三木家。
屋敷構えはよく残っており、9棟の建物が現存している。
実は柳田國男はこの三木家とただならぬ関係があり、國男が11歳の頃に1年以上預けられ、その間三木家の書物を読み漁っていたことがのちの民俗学の基礎になったと言う。
蔵書は四千冊余というから相当のものである。
緊急時に打ち鳴らす「半鐘」。
かまど
っていうか、柳田國男が自分の家を小さく感じたのって、三木家に預けられたのが理由なんじゃ・・
1年もここに住んでたら、そりゃ帰ったら狭さに愕然とするよなぁ。
銀の馬車道
最後に「銀の馬車道」の話をしておこう。
兵庫が誇る優良鉱山、生野銀山の話を以前書いた。
生野の鉱山で採れた銀は、姫路の飾磨港から船で積み出された。
そして生野から飾磨までは、一直線に貫く馬車道が整備された。
今風に言うと高規格産業道路となるだろうか。いわゆる馬車専用の高速道路で、「銀の馬車道」と呼ばれた。
もうおわかりだと思うが、辻川を貫く街道が昔の「銀の馬車道」なのだ。
かつて日本の近代化を支えるべく馬車が走り抜けた道。
そんな銀の馬車道を、令和の現在、自転車がノロノロと走っていた。
古い建物が残っているのは三木家住宅の付近だけでほとんど旧街道の面影は残っていない。
唯一とも言っていいのが右手に見える建物。
こちら。旧「鈴の露酒店」だそうな。
見どころはホントにこれぐらい。
国道312号線を南下してきた銀の馬車道は辻川北交差点で東へ進路を変え、三木家住宅や旧辻川郵便局の前を通る。
全長49kmの「銀の馬車道」は福崎を含めいくつか宿場を通った。
また、町並み以外にもいくらか名残が残っており、これはこれで別の機会に記事にしようと思っている。
そんなわけで、辻川の話はここまで。
おしまい。
[訪問日:2021年11月28日]
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