昨年(2014)末、少しまとまった時間ができたので三泊四日の日程で沖縄へと飛んだ。
目的は他でもない。沖縄屈指のディープゾーンとして名を馳せた、コザ吉原と真栄原の街並みをこの目で見ることである。
羽田発6:25のANA機に乗り込む。外は雲一つないピーカン。
文字通りのオフシーズン、しかも平日のクソ早い時間帯とあって機内はガラガラ。
9時過ぎに那覇空港に着き、すぐさまレンタカーを借りる。その足で向かったのは、沖縄第二の都市、沖縄市である。
吉原へ
沖縄市にあるコザ吉原社交街。その歴史は戦後にまで遡る。
白人兵向けの歓楽街としてスタートしたこの街は、やがて日本人向けのちょんの間街へとその姿を変えていったのである。
ちなみに「社交街」とは、沖縄での歓楽街の呼び名だと思っていただけると概ね相違ない。
「吉原」の名は東京の吉原遊郭の名を模して付けられたもので、ここら一帯の住所は「沖縄市美里一丁目」となる。
しかし交差点にははっきり吉原の名が残っているから面白い。
その吉原交差点から路地を東へ入って行くと、かつての社交街が眼前に現れる。
そう、ここは「かつて」という言い方のほうが正しいのだ。
2009年、自民党の歴史的敗北により民主党政権が発足。
それを契機として、それまで当局から黙認されていた真栄原、次いでコザ吉原が「浄化運動」の名の下に無慈悲な弾圧を受け、壊滅に追い込まれてしまったそうだ。
白日の下に晒された“元”社交街は、判ってはいたが完全にゴーストタウンと化していた。
どことなく空気が淀んでいる。
平成22年(2010年)10月に「吉原壊滅作戦」が発動し、約220軒あった店舗の実に半数以上の120軒が閉店となる。
そして、翌年4月の第二次壊滅作戦で、残る約100軒が摘発され完全に息の根を止められてしまった。
「カフェー」の呼称は沖縄でも浸透していたのか。
妙なところで感心してしまった。
しかし、よく目を凝らすとまるで本物の結界のようにドアは固く閉ざされている。もう二度と開くことはないのか。
あまりに特徴的なファサードに、星条旗をモチーフにしたかのような星マーク。
ここが春をひさぐ場であったことは察するに余りある外観をしている。
琉球建築というのか、この特徴的な屋根を見てると、ある意味ルーチンワークと化してしまった色街歩きもいつもと違った新鮮な気分にさせられる。
あー、ホントに沖縄まで来たんだな。
吉原は、基本料金が15分5kと信じられないような安さだったそうだ。
低所得な沖縄県と言えども、このデフレ価格ならリピーターも絶えなかったはず。ここへ通うことを生きがいにしていたような御仁などにはなんともむごい結末である。
訪問時、壊滅からすでに3年半という歳月が流れていた。
一縷の望みさえ完全に消え失せ、自らの「天命」を真っ直ぐ受け入れた街、吉原。
だがこの後、もしかしたらその判断は間違っていたのかもしれない・・という出来事に対峙することになる。
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コメント
いや~!沖縄とは。
いろいろ奥深い感じがします。
まだまだ予想外な展開は続きますよ(ニヤリ)
2006~7年ごろにコザ十字路に訪れて、女の子がめちゃくちゃかわいい子ばかりで2連チャンした覚えがあります。残念ですわ、ほんと。
その頃は今より全然賑わってたんでしょうね。完全に死んだわけではないらしいので、今でも一応遊べるみたいですよ。たぶんクオリティは昔ほど高くはないんでしょうけど。
コザの吉原の雰囲気が大好きで、毎年沖縄出張のたびに通っている者です。
夜の街灯があまりない住宅街を無言の男たちが十数人、薄らと明かりが漏れるドアの先をのぞき込んでは吸い込まれていく感じはたまりません。
一時は取り締まりにとって風前の灯火の感がありましたが、今年2月に訪れたときはけっこうな数の店が営業を再開しているようでした。と、言っても2010年ごろに比べれば6割ぐらいでしょうか。普通は一度摘発されれば、こういう街はすぐに消え去ってしまう印象なのですが、復活の兆しを見せるとは驚きの限り。夜の女性の受け入れ先が沖縄にはないのかもしれませんが。
ほかのルポも非常に興味深く読ませていただいてます。何で遊郭の世界にここまで魅せられるのか、自分でもよく分かりません。
こんにちは。有益な情報ありがとうございます。
私が行ったとき(2014年末)はもう終わった街という噂を聞いていて歩いたときもそうだとばかり思っていたのですが、あの頃普通に営業していたのですね。
またいつか、今度は夜に行かなければいけなくなりました(笑)
ルポなんて大層なものではありません。ただの旅好きの駄文ですが、少しでもお役に立てていれば幸いです。是非また遊びにいらしてください。