昨年末に、鳥取県を三日間かけて回ったときの話をここんとこずっと書いてきたわけなんですが、いよいよ舞台は県庁所在地の鳥取市へ。
米子から鳥取へはコナントレインで移動。
車内で殺人事件が起きるんじゃないかとドキドキしてましたが、なんとか無事に到着w
鳥取駅に着いてまず向かったのが、現在の瓦町にあった「聚楽園(しゅうらくえん)遊郭」。歩いて5分かかるかどうかという近さの駅前遊郭である。
そこは藩主の庭園だった
駅北口からアーケード商店街を抜け、国道を渡るとそこが聚楽園遊郭跡。通称「三角公園」と呼ばれる、リアルに三角形をしている太平公園を目印に向かうとわかりやすい。
かつてのメインストリートと思われる通りを歩いて行くと、すぐにそれと理解できる特異な建物が目の前に現れる。どうやらここで間違いないようだ。
この聚楽園遊郭の成り立ちは少し面白い。
この場所は元々、藩主であった池田氏の下屋敷があったところで、日本三名園のひとつ、あの岡山後楽園を模して造られた庭園があった。
もうおわかりだと思う。その庭園が「聚楽園」なのだ。
廃藩後、放置されて荒廃気味だった聚楽園を、桶工をしていた豊国孫四郎という人物が払い下げを請願。それが認められるや否や、大衆的な娯楽場として一般開放したことにより茶屋、見世物小屋、劇場などが続々とオープン。
やがて芸妓置屋ができ、芸妓や娼妓がいる街になり、そうなったらそこはもう花街であり遊里である。
ざっくり概観すると聚楽園遊郭はこのようにして誕生した。明治初期の話である。
ところで鳥取には、旧袋川を挟んで反対側の「本町」にも花街があったそうで、こっちは純粋な芸者の街だった。
明治10年に聚楽園が正式な遊廓地として指定を受け、翌年には芸妓の二枚鑑札(芸妓と娼妓どっちもやっていいよ、っていうヤツ)が認められた。
※こちらの雪洞がある遺構は取り壊されて現存しません
そりゃもう芸者とて体を売るほうが楽なわけで、人は易きに流れる生き物だし、そういう流れになっていくのは至極当たり前なわけで。
そしてとうとう明治16年には「聚楽園の芸妓は本町に移転せよ」というエポックメイキングな規則が発令され、本町が純粋な花街、聚楽園は純粋な遊廓、という棲み分けがここに完成。
その後はどうなったかというと、戦後は赤線になり、1958(昭和33)年、防止法の完全施行によってその歴史に幕を閉じた。
以上、『花街 -異空間の都市史-』よりもろもろ参照
ちなみに昭和5年の『全国遊廓案内』によれば貸座敷47軒娼妓85名(芸妓35名)となっている。(これを見るとその後も芸妓はいたみたいですね…)
また、昭和30年の『全国女性街ガイド』には28軒110名。「戦前の瓦町遊廓」と書いてあるところを見ると、聚楽園は通称みたいなものだったんだろうか。
盛り場の名残を見る
正面が三角公園。
遊郭時代の遺構たちはこれまで見てきたとおりである。すべて公園の南側にある。
公園の西側には、スナックや飲み屋をはじめ盛り場だった時代のなれの果てが無残な状態で現存していた。
「風俗営業(まあじゃん屋)」
まさかこんな激レアなものにお目にかかれるとは(*´Д`)
てか、なぜにひらがななのか・・
この飲み屋ビル、定番のぬけられます仕様になっていた。
素晴らしい寂れ具合。
もうひとつ、ぬけられます仕様の飲み屋横丁があった。その名も「松屋横丁」。
どうやら、とうに廃業し今はアパートのような雰囲気だった。
抜けた先は中庭のようだったので撮影は自粛させていただきました。
公園の北側にも遺構然とした長屋が一棟残っていた。こっちの横丁はまだまだ現役っぽい雰囲気を醸し出している。
これを最後の砦と呼んでも差し支えはなさそうであった。
もう付近はすっかり宅地化の波に洗われてしまっていて、先に紹介してきた遺構たちでさえもしっかり住宅街に馴染んでいて正直そこまで違和感は感じられなかった。
大名庭園の聚楽園は、二枚鑑札の花街から遊郭、そして赤線へと進化を遂げた。
赤線の灯が消えて60年。今ではそんな歴史があったなんてにわかには信じられないような、穏やかな町並みがただそこにはあった。
[訪問日:2016年12月25日]
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