遠くとも、一度は参ろう『鶴賀新地』←字余り

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「遠くとも一度は参れ善光寺」「一生に一度は参れ善光寺」で有名な長野善光寺。
当時、寺社仏閣への参詣と言えば精進落としの遊郭がつきものであり、善光寺の場合も徒歩20分ほどの程よい場所に「鶴賀新地」という公許の遊郭があった。

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その場所は、長野駅から長野電鉄長野線で二つ、「権堂駅」の東側にあたる。元々はこの権堂に遊郭があったのが、明治天皇が善光寺を参る際、『近くに遊郭があるのはマズイ』というおなじみの理由で東鶴賀町に移転させられたのだ。明治11年のことである。

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駅南側の道を東へとぼとぼ歩いて行くと、かつての盛り場の名残がぽつぽつと見えてくる。現在でもその機能を失ってはいないようで、駅周辺は長野市内を代表する歓楽街となっている。

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さらに東へ進むと、交差点の先で突如道幅が広くなる。ここだ。間違いない。

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余談だが、その、大門通りに入る手前を右(南)へ折れたところに、名前からしていかにも昭和レトロ臭が漂うラブなホテルが建っていた。
プレジデントって・・・w

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実は、ここを歩くために前日はすぐそばのホテルハイアットに投宿したというオチだったりする。遠征時は時間をムダにしないため、遊里のそばで泊まってチェックアウト前にちゃちゃっと散策するというこの手は割とよく使う。
駐車場(駐輪場)探さなくていいしね。

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色街の歴史と関連のありそうな重厚な屋敷がひときわ存在感を放っていた。

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その向かいに駐車場があり、ふと何気なく奥を見やると青いバラックを視線が捉えた。
鬱蒼とした森にいだかれ、この一角だけ何か時空が歪んでるようなそんな雰囲気を醸し出している。

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近づいてみる。やはり廃墟だった。
後に知るのだが、遊郭時代の建物である。でかいし、もしかしたら妓楼だったのかもしれない。

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そして、もう少し進むと「三神社」と書かれた鳥居がある神社があり、ここに遊郭があったことを示す碑がひっそりと建てられている。

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これがその碑。うっかりしてると見落としかねないほど、色も立ち位置も地味なことこの上ない。

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明治十一年、東鶴賀一帯の約一万坪の地域に、公許の遊廓鶴賀新地が設置され、四十余軒の妓楼や多くの店が軒を連ねた

とある。移転理由は先述の通りで、四方を板塀で囲まれた中に貸座敷48軒、娼妓304人がいたと言う。
それから順調に発展して、1902年(明治35年)~1913年(大正2年)頃の最盛期には娼妓が500人を超えたとあるからかなりの規模だったようである。(『遊郭をみる』より引用)
ただ、遊郭が繁栄したと言うことは前借金で身を落とした貧農出身の女性がたくさんいたということでもある。このことを思うといつも複雑な気持ちになる。

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おっさん

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その神社の横は公民館となっている。何やら地元の屈強な男衆たちが忙しなく動いており、見るからに地域の祭りの準備をしているようであった。

そんなところで遊郭の石碑なんて撮影してたもんだから、いかにも町内会の「相談役」のような風貌のおっさんが目をキラキラさせながら話しかけてきた。

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話すのが大好きなのか、ほっといたらエンドレスに話し続ける勢いだったので適当なところで切り上げたが、このおっさんからいくつか貴重な話を聞くことができた。

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まず、この建物はかつて「検番」だったとのこと。かなり大幅に改装しているが、屋根の下の家紋みたいなものは当時のものだと言う。

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これがそう。
そして、この三神社のご神体は、なんとまぁ男性のシンボルだそうである。わかりやすすぎるw

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まぁ、これはあそこにいる若い衆がふざけて作ったんだけどね。わっはっは
こういうノリ、嫌いじゃないw

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そして最も貴重な証言が、「当時の建物はもうほとんど壊しちゃったけど、隣の通りに蔵があったでしょ、あれもそうだね」
と言うので見てきたのがこれ。何の店だったかは聞かなかったけど、たぶんその話を聞かなかったら素通りしていたと思う。
ちなみに例の青いバラックもそうだと教えてくれたのも他ならぬこのおっさんである。

旅先では時としてこういう「いい出会い」がある。
晴天の空の下、朝からこういうことがあったので意気揚々と長野を後にすることができた。感謝。

途中赤倉温泉に寄りつつ、この後、一路新潟を目指した。

[訪問日:2014年9月21日]


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