朽ちゆく栄華の記憶。九州最後の炭鉱の島「池島」訪問記

長崎県
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1952年から約50年石炭の採掘が行われ、最大で8,000人近い人口を数えた池島。
1978年までに50棟も建てられた炭鉱住宅は、大部分がそのまま現存している。

その中でも、“池島最大の見どころ”の呼び声高いのが・・

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8階建て旧炭鉱住宅

まるで要塞のように無骨に立ち並ぶ旧炭鉱住宅。“8階建てアパート”と呼ばれるこの建物が、池島最強のインスタ映えスポットである。

※アパートよりは団地のほうがしっくりくる

そもそもどういう経緯でこの島のことを知ったかはもう忘れてしまったが、色々調べるうちにこれだけはどうしてもこの目で見たいと強く思うにいたった。

現地に立つと、その圧倒的な存在感に大げさではなく身体が震えた。

今はもう完全に廃墟になっており、中に入ることは許されない。

道路は建物の北に面している。
通り過ぎた西側には、今度は建物の南側に向かって戻るように道が続いていた。

そして、その道は上り坂になっている。

実は、南側に回り込むとそこはアパートの5階。
北側からは1~4階、南側からは5~8階に行けるように高低差を巧みに利用した造りをしているのだ。

それゆえエレベーターはなく、当時としてはかなり画期的だったのではないかと思われる。

8階建てアパートの向こう、島の最奥部に第2立坑への入口が見える。
残念ながら今は立入禁止になっており、近くまで行くことはできなかった。

アパートの裏手には、最短で第2立坑へと向かう階段が残っていた。
炭鉱マンたちは家族を養うために日々ここから海底へと潜り、安堵を胸にまたこの場所へ戻ってきたことであろう。

池島展望台

展望台へ上がると、第2立坑の櫓と蟇島 (ひきしま)がよく見える。
蟇島には入気と排気のための2つの立坑が設けられており、池島炭鉱が長く安定して稼働を続けられたのはこのことが非常に大きかったそうだ。

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もうひとつの炭鉱住宅へ

8階建てアパートの東側に、団地のように高密度に炭鉱住宅が立ち並ぶエリアがある。

このエリアはまだ住人がおり、見立てでは大部分の人がここか港のそばの住宅に住んでいるのだろうと言う感じだった。

しかしながら、棟ごと無人化してしまったところも多くあり、まさに廃墟さながらの雰囲気を醸していた。

閉山後、自然死を考えなければおよそ95%、2,500人余りもの人々が島を離れた計算になる。

仕事がなければ島にとどまることはできない。それなりに住み慣れた場所を、生活のために離れざるを得なかったことはそれなりに小さくはない選択だったと思う。

それでもこの島にとどまり続ける人たちは、一体如何なる理由と思いを背負って残る道を選んだのだろうか。

家族との思い出が詰まった土地を捨てられなかったのか、戻る場所がないのか、理由は様々だろう。

賑やかだった頃を知る身としては、年々知ってる人が減り、寂しくなっていく現実を直視しながら暮らすことは想像以上に過酷なのではないだろうか。

単なる老婆心からそんなことを思った。

コミュニティバスが走り、一軒だけだが食堂兼小売店がある。

そして、銭湯もまだ営業している(らしい。未確認)。

けど、ライフライン的には正直もうギリギリのところまで来ていると思う。
廃墟となった住宅をゲストハウスとして蘇らせるとか、コワーキングスペースとして今流行りのリゾートテレワークを始めるとか、何か方策はないものだろうか。

せっかく炭鉱という魅力的なコンテンツがあって、非日常を味わえる離島というロケーションなのだからやりようによっては人を呼び込めると思うんだけどな。

船便も多くアクセスも良いしね。

銭湯の写真撮ってたらどこからともなく猫が集まってきて、しかもめちゃくちゃ人懐っこい奴らだった。

池島は炭鉱と廃墟と猫好きの楽園だった。
コイツらと遊んだら余裕で2時間ぐらいつぶせそうだったけど、船の時間もあるので名残惜しくも先へ進むことにした。

またなお前ら!

 

次回最終話!炭鉱関連施設を眺めながら港へ戻ります

(4ページ目へ続く)

コメント

  1. マキ より:

    そうですよね。長崎は夏場になれば夜8時くらいまで明るくて、子どもは遊びほうけて、親から「はよ、帰らんね!」って呼ばれるんです。その分、朝の夜明けは遅いですが。書かれているように、島に残った人はそれぞれ、事情があるのでしょうね。

    • machii.narufumi より:

      そうなんです。私は本州しか住んだことないので、九州に行ったときの日没の遅さには驚きました。
      100人いれば100通りの生き方があります。人間模様は色々ですもんね。

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