古都の隠し球…加賀百万石の城下町、「ひがし茶屋街」を散策しよう

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石畳の路地。
立ち並ぶ美しい出格子の茶屋建築。
江戸時代の風情が残る古い街並み。

加賀百万石の城下町、古都・金沢を代表する観光名所、『ひがし茶屋街』を端的に説明するならこんなところだろうか。

兼六園や近江町市場、金沢21世紀美術館と並ぶ定番中の定番スポットなので行ったことある方も多いだろう。
だが不思議なことに、その街並みに秘められた本当のことを知る人はあまり多くない。

そんなわけで、今日は簡単に歴史の話を交えながら街並みの紹介をしていこうと思う。

ひがし茶屋街

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ひがし茶屋街の歴史

江戸時代後期の文政3(1820)年、加賀藩は城下に散在していた茶屋を集め、卯辰山の麓と犀川の西岸に茶屋街を置くことを認可した。それぞれ、城下町との位置関係から「ひがし」「にし」と呼ばれていたようだ。
これが今日の「ひがし茶屋街」と「にし茶屋街」のはじまりである。

前回さらっと触れた通り、茶屋街をつくるにあたって町割りを整備し直した関係で付近だけ整然とした街並みになっている。

当時、「ひがし」には約90軒のお茶屋が立ち並び、京都の祇園と比肩するほど格式の高い花街として賑わいを見せ、長い間茶屋文化を育んできた。

弁柄塗りの木格子

木虫籠(きむすこ)と呼ばれる弁柄色の木格子。茶屋建築の特徴のひとつ。

ひがし茶屋街には、江戸後期から明治初期の茶屋建築が多い。

料亭の鑑札

ここは今もなお現役で、6軒のお茶屋が営業している。
昔からのしきたり通り、“一見さんお断り”のルールなので常連さんの紹介がないと上がることはできない。

町割りがほぼ当時のままであること、茶屋建築がよく残っていることを理由として、2001年11月に「茶屋町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
登録に際しての地区名は「東山ひがし」。
「ひがし茶屋街」はたぶん俗称のようなものなのだろうと思う。

お茶屋とは何ぞや

そもそも、“お茶屋”とは何なのか。
現代の感覚で言えばそれはもう喫茶店以外の何物でもないわけで、本気でそう思っている人もいるかもしれないが、残念ながらそれは違う。

花街におけるお茶屋は、芸妓(芸者さん)を呼んで芸と飲食を楽しむところ。
人によっては「お座敷遊び」と聞けば理解できるかもしれない。

江戸時代などは、京都の島原のように格式の高い場所では芸事以外にも幅広い知識と教養が芸妓に求められ、客もそれに応えるために自己を研鑽し、双方が高いレベルで触れ合う「粋」な文化としての側面があった。おそらく「ひがし」もそのような場所であったことは想像に難くない。

しかし、である。

売ってたのは芸だけではない

今では京都を代表する花街と言えば「お座敷遊び」「一見さんお断り」「金持ちの娯楽」と言った、一般人とは縁遠いどこか崇高な響きがある。

ところが、当時はそうではなかった。
当サイトでもたびたびネタにしている「遊郭」。昔は遊郭と花街(茶屋街)の区別は極めて曖昧で、芸妓を置く遊郭、娼妓を置く花街が当たり前のように存在した。

さらには、「二枚鑑札」と言って両方を兼ねる“二刀流”な芸妓もいたりして、まったくもって健全な場所ではなかったのである。

本当の「お茶屋」になった茶屋建築

さて、ここでようやく核心に触れることができる。

ひがし茶屋街もご多分に漏れず、当時はそういう場所だったわけである。

創建当初から残るお茶屋「志摩」

めんどくさいので直球を投げ込むと、古都の風情やら情緒やらキレイ事を並べて観光客を楽しませてるひがし茶屋街は、昔はほぼ遊郭だったのだ。

売り買いされていたのは芸だけではなかったという、この史実を知ることはここへ足を運ぶ上で結構重要ではないかと思う。

ただ、やってたことが曖昧だったとは言え、あくまでもメインはお茶屋だったので「茶屋街です!」と言い切りたい。観光客への建前もあるし。

という気持ちはすごくよくわかる。
だから別にそれはそれでいいと思う。

こちらが東料亭組合。いわゆる検番。

金沢の遊郭

というわけで、ここらで金沢の遊郭事情について少しばかり紹介をしてみたいと思う。

金沢の遊郭は、「東廓(ひがし)」「西廓(にし)」、そして明治初期には北廓と主計町がつくられる。
主計町は茶屋街だが、≒遊郭であったことは先述の通りである。

こちらも創建当時からあるお茶屋「懐華樓」

明治5年、遊郭界では有名なあの事件が起きる。
マリア・ルス号事件が契機となった『娼妓解放令』が出され、表現がどうかと思うけど業界で“組織改編”のようなものが行われる。

その結果、芸娼妓の身分をはっきりさせ、遊郭と花街の棲み分けがなされ、ちょっとだけ色々なことが透明化されるということになった。

金沢では、それにより花街色の強かった「ひがし」の一部、「にし」の一部、主計町は純粋な花街として発展していくことに。
逆に、遊郭色の強かった「ひがし」の一部、「にし」の一部、「きた」が遊郭に。

その後、「きた」が「にし」の一部に移転し、合計で5ヶ所の遊郭・花街となった。

ここで、「え?一部?」という疑問が出てくる。

これこそが“ひがし茶屋街、にし茶屋街は昔遊郭だった”と言われる所以にもなっているところで、ひがしの北側、にしの北側にそれぞれ「愛宕」「石坂」という遊郭ができたのである。

愛宕遊郭があった場所は、ひがし茶屋街に隣接する北側のエリア。
今いるメインストリートの突き当たりを左に曲がったあたりになる。

それではそちらへ行ってみよう。

(2ページ目へ続く)