船で行こう!島原「湊新地遊郭」へは九商フェリーが便利です

長崎県
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遊郭があった湊新地あたりは、1792(寛政4)年に発生した雲仙岳の火山性地震(島原大変肥後迷惑)で、眉山が山体崩壊したことによって誕生した。

その後、明治3年に土地の造成が行われ、新地橋が架けられる。
遊郭ができたのはその少しあと、明治12年頃だそうだ。

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龍馬の長崎初上陸の地は「島原」だった

明治維新の少し前の1864年。坂本龍馬は、勝海舟らとともに熊本から有明海を渡り、長崎へ。
長崎初上陸の地が、ここ島原だった。

って書いた碑が立っていた。

冬の海は凪いでいた。

このあたり、小さな島が多い。これは「島原大変肥後迷惑」によって海に流れ込んだ岩の塊で、島ではなく岩礁群。
津波も発生し、熊本、長崎双方で大量の犠牲者を出したそうでいかに噴火のパワーが凄まじかったかを物語っている。

話を遊郭へ戻そう。

龍馬の碑のすぐ近くには、稲荷神社があった。往時は遊女たちの信仰を集めていたに違いない。

メインストリートの突き当たり。このすぐ後ろが海になる。
湊新地町は無理やり陸続きにさせた人工島みたいな形をしていて、出入り口は新地橋のみという洲崎遊郭のような構造をしている。

『全国遊廓案内』によれば、妓楼11軒に娼妓は100人ほどいたそうだ。
なかなかの規模だと思わないだろうか。

眉山を望む

と言うのも、かつてはここが島原港の中心で、潮待ち風待ちの港として帆船が集まるところだった。

遊郭は、船乗りたちに支えられ大層賑わったそうだ。

このレンガ壁・・この高さ!そうか、これが・・伝説の・・・

NA・GE・KI スタイル!

これは・・マリオじゃないと越えられねぇ・・。

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雰囲気は色濃く残されていた

手付かずの妓楼はさすがに見つけられなかったが、昔はそうだったと思われるやたらでかい家がぼちぼち残っていた。

これもそう。

湊新地遊郭は、昭和33年の防止法までは存続していたという。
その後、緩やかに今の住宅街の形へと姿を変えていったのだろう。

今は、ただただ静かな住宅街だった。
歩いている間、外で遊んでいた子ども以外には誰にも会わなかった。

廓の北東。

この「とっとっと食堂」は、江戸時代の蔵をそのまま活用した建物。旨い海の幸が食べられるので廓散策の後にどうぞ。

新地橋から登楼し、新地橋から帰る。これが正しい遊び方。(だって他に道がないから)

さて、島原には日本100名城のひとつ「島原城」がある。
せっかく来たんだから、もうちょっとだけ観光してこうか。

[訪問日:2018年1月6日]


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