越中八尾で予定を2時間近くオーバーしてしまったせいで当初行く予定だった片山津温泉は諦め、あわら温泉に寄ってこの日は「道の駅越前」まで走った。
夜半、屋根を叩く雨音に幾度となく眠りを妨げられ、寝不足のまま朝を迎えた。
そして旅の最終日。
三日降り続いた雨はようやく上がってくれた。
朝飯を調達するために立ち寄った南越前町のコンビニで、そこがかつて北前船で栄えたまちであることを偶然知ることになった。
これはみすみす見逃すわけにはいかない。
ここを歩くことになったのはそんないきさつからだった。
河野北前船主通り
国道305号に面した南越前町河野(こうの)はかつて廻船業を生業としていたまちで、北前船で財を成した旧家の屋敷が今も残っている。
範囲こそ狭いが、非常に濃い町並みを見ることができる。
平成29(2017)年4月に日本遺産に認定された「北前船寄港地・船主集落」は、北前船に関連する文化財を持つ11の自治体が文化庁に申請した案件でキャッチコピーは
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~
ここ河野では4件の文化財が登録されている。
今では構成遺産もはるかに増え、49自治体にも及ぶ大所帯となっている。
今回の旅で巡った吉久や東岩瀬、他にも過去に訪れたこのあたりが含まれている。
さて、そんな河野の構成遺産のひとつがこちらの北前船主の館「右近家」。
日本海五大船主とも言われた右近権左衛門の屋敷で、手前にある観光案内所も右近家の建物。
ちょうど開館時間と重なったが、なにぶん予定になかった散策なので中に入るのはやめておいた。
右近家の前にある集落道がかつてのメインストリートで、この道を挟んで山側に本宅と内蔵、海側に4棟の外蔵が立っている。
で、上にちょろっと見えてるのが昭和10年に別荘として建てられた「旧右近家住宅西洋館」。
日本海の眺めが素晴らしいらしく、登録有形文化財にもなっている。
集落のメインストリート。
今の国道305号線は、海岸線を埋め立てて建設されたものだと言う。
ということは、かつては屋敷のすぐ前が海で船溜まりもそこにあったのだろうか。
右近家の菩提寺「金相寺(こんそうじ)」。
右近家の事業は、江戸初期の1680年に金相寺より土地、屋敷、船などを譲ってもらい独立したことから始まっているそうで、言わば五大船主の生みの親とも言えるお寺。
文政7(1824)年に建てられた鐘楼堂。
金相寺前の更地にはかつて船頭の屋敷があったそうだ。
中村家
右近家の次に大きいのが、金相寺の横に立つ中村家。
が、何やら工事中だった。残念すぎる。
右近家とともに北陸有数の北前船主だった中村家は、江戸時代には廻国巡見使の御宿を務めたほどの家柄。
山側に主屋と新座敷及び土蔵2棟が立ち、海側には薬医門と土蔵4棟が、海風から主屋を守るように立っている。
主屋はブルーシート、薬医門と土蔵は鉄パイプ。。
中村家の北側、お隣にも中村家。
こちらは分家で、右近家や中村家の船頭も長く務めた中村吉右衛門家。
最後が北前船主「刀禰家」。
明治37年と比較的新しい建物。
海側(左手)には、長屋門を挟んで土蔵2棟が配置されている。
主屋と北側の土蔵。
なお、刀禰家は非公開。
河野北前船主通りでは「右近家」が公開、「中村家本家」が不定期で公開、「中村家分家」「刀禰家」「金相寺」が非公開となっている。
船主通りはここまで。
引き返すのでアレなので、刀禰家の長屋門から国道に出た。
明治に入ると北前船は衰退の歴史を辿ることになるが、右近家の10代目は近代化(西洋型帆船や蒸気船)に舵を切り、さらに他の北前船主らとともに海上保険会社を設立。
それが日本海上保険株式会社、現在の「損保ジャパン日本興亜」である。
海で一時代を築いた右近家を中心とした、河野北前船主集落。
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間がそこにはあった。
[訪問日:2021年8月15日]
コメント