抜けるような澄み切った空の下、手始めに足を運んだのが東舞鶴にあった『竜宮遊郭跡』である。
“もはや何も言う必要がない”というのはこのことだろうか。
ただの住宅街にこの道幅。ここが目抜き通り、いわゆる“大門通り”である。
地図で見たら一目瞭然。明らかに普通でない整然とした区画。
どう見ても遊郭があったとしか思えない地割をしている。
歴史を紐解く
朝代遊郭から遅れること10年。1901(明治34)年かその翌年に竜宮遊郭は7軒という貸座敷数で誕生した。
工事関係者を対象とした朝代とは異なり、客層ははなから水兵を想定していたという。
その後急速に発展し、1911年には35軒、娼妓150人。最盛期は1918年頃で40軒、300人超と、軒数だけでも開設時の6倍あまりに膨れ上がっている。
しかし竜宮遊郭は、港が要港部へ格下げになったことで勢いを失い、『全国遊廓案内(昭和5年)』によれば貸座敷は29軒、娼妓は80人ほどまで減ってしまったようである。
人数に限って言えば、全盛期の4分の1とその凋落ぶりがあまりにドラスティックと言わざるを得ない。
メインストリートで、唯一ぱっと見で判断のついた建物がこれ。
ファサードが若干カフェー調で、その他の古い建物と見比べても明らかにこれだけ毛色が異なっている。
そしてこちらは転業アパートのような趣き。
外観からはこれと言った怪しさは感じられないが、そう言えばここは遊郭跡だったと思いだしたときに疑いの目を向けられることになるのは大体こういう建物と相場が決まっている。
あっという間に反対側まで来てしまったので振り返ってみる。やはりどう見ても無駄に幅員が広すぎる。
『遊郭をみる』に竜宮遊郭の紹介があるので、そこから当時の絵葉書を引用。
どうやらこの遊郭は川べりにあったようで、おちょろ舟のような小舟も見受けられる。
確かに、南側には川が流れている。いや、川と言っても流れはなく、ただの用水路の様相を呈している。
往時の風情などすでにどこにもない。
北側に並行する通りへ
なんだ、道幅だけ無駄に広いくせに大した収穫ないじゃないか、となかば投げやりになりながらおもむろに裏通りへ足を踏み入れたところ
い た
いましたよ。とんでもない隠し玉が。
カフェーっぽいところを見ると戦後の建物だろうか。
絶妙な位置に置かれたバケツが、現実世界と異世界の結界の役目を果たしているように見える。
そして目の前にもまた、異界の住人が不敵な笑みを浮かべながら佇んでいた。
裏通りを舐めたらいけないという教訓をこのとき改めて得ることになった。
竜宮遊郭は、その後1940(昭和15)年に丸山(東舞鶴駅の南方)に移転。戦後は現在の場所に戻ったものの、かつての勢いを取り戻すことはできなかったと『遊郭をみる』は結んでいる。
海軍に振り回されながら存続し続けた舞鶴、竜宮遊郭。
今では道幅だけが歴史を物語る、静かな住宅街になっていた。
植え込みには見頃を迎えたツツジの花。
赤いツツジは「恋の喜び」、白いツツジは「初恋」
この花言葉を思うとき、この場所にこれほど相応しい花も他にないのではないか。
そんなことを考えるわけである。
[訪問日:2017年5月4日]
コメント
なんだか引き込まれて最後まで読んじゃいました。
私自身レトロな街が好きで、この哀愁のある終わり方がぴったりで良いです。
ありがとうございます。
これからもちょくちょく遊びに来ていただけたら嬉しいです。